今回は、北畠顕家や新田義貞の死を通して、南朝が劣勢に置かれていく様子を見ていきたいと思います。
その前に、後醍醐天皇の皇子たちの戦いから見ていきましょう。南北朝時代は、この皇子たちが全国に赴いたことで、戦乱は京都から全国に広がったのです。
全国に赴く皇子たち
後醍醐天皇は、たくさんの子宝に恵まれた天皇でした。後醍醐天皇には18人の后妃から、男子18人、女子18人合わせて36人の子女をもうけています。
後醍醐天皇が尊敬する醍醐天皇の39人以来の数字で、子宝の数も醍醐天皇を見ならったとか、見倣っていないか・・・。
そして、主な皇子には、護良(もりよし)・尊良・宗良・世良・恒良・成良・義良・懐良(かねよし)らがいました。
このうち、後醍醐天皇の寵愛を一身に受けたことで知られる阿野廉子(あのれんし)の子が恒良・成良・義良で、特に厚遇されます。
阿野廉子は、後醍醐天皇が隠岐へ配流のとき、数多い后妃の中から唯一選ばれて隠岐の配所に随行して、建武政権にあっては政務・人事に介入するほど権勢をふるいました。北畠顕家は、後醍醐天皇に対して、阿野廉子を政治から遠ざけるように諌奏しています。
ちなみに、源頼朝の義弟で、義経の実兄にあたる阿野全成は、阿野廉子の先祖にあたります。
足利尊氏と激しく対立した護良の母は源親子。
尊良・宗良の母は二条為世の娘為子です。
この皇子のうち、早世した世良、足利直義に殺害された護良、京都に幽閉されたとみられる成良以外の皇子たち、つまり尊良・宗良・恒良・義良・懐良(かねよし)が後醍醐天皇の分身として全国に派遣されることになりました。
尊良・恒良は新田義貞とともに越前へ、義良は建武政権成立と同時に北畠顕家とともに陸奥に派遣され、一時京都に戻りますが、宗良とともに北畠親房に奉じられて再び陸奥へ派遣されました。
また、懐良は五条頼元に奉じられて九州に派遣されることになりました。懐良は、明国にその名が知られるほど九州で強力な基盤を築いて北朝に抵抗し、あの足利義満を大いに悩ますことになります。
このように、皇子たちが全国に赴いたことによって、南朝対北朝の戦いは、全国の各地域が抱え込んでいた様々な対立・抗争と直接結びついて、拡大・泥沼化していくのです。
尊良・恒良の悲劇
この皇子たちのうち、最も悲劇的な最期を迎えることになるのが、越前に赴いた尊良・恒良です。
比叡山を離れた義貞たちは、足利軍の追撃をかわしながら敦賀(福井県敦賀市)へ向かいますが、途中を足利一門の斯波高経が遮断していたので、大きく迂回しなければならなくなります。厳冬の木の芽峠(福井県今庄町と敦賀市)を超えることになるのです。
木の芽峠といえば、畿内と北陸を結ぶ交通の難所であり、豪雪地帯です。
『太平記』には、「互ニ抱付テ身ヲ暖ム、元ヨリ薄衣ナル人、飼事無リシ馬共、此ヤ彼ニ凍死シテ(互いに身を寄せ合って身体を温めようとするも、薄着だった者や馬たちは凍死してしまった)」と記されるように、悲惨な雪中行軍となります。
義貞一行は気比大宮司に迎えられて、ようやく敦賀金ヶ崎城に入ることができました。
しかし、早くも1337年(建武四年・延元二年)1月には高師泰を総大将として斯波高経・仁木頼章らの足利軍が金ヶ崎城を包囲攻撃します。
城内の兵粮は欠乏し、「射殺サレ伏タル死人の股ノ肉を切テ、二十余人の兵共一口ヅ、食テ、是ヲ力ニシテゾ戦ケル(死んだ兵の肉食べて命をつないで戦った)」(『太平記』)という、地獄のような状況になりました。
結局3月6日に金ヶ崎城は落城。
落城の寸前に義貞の子義顕は、尊良に敵に捕らえられても生きることをすすめますが、尊良は「臣なくしてなぜ首将があるか」と述べ、義顕が自害した刀で後を追って自害します。
恒良は捕らえられて京都に送られ、成良とともに毒殺されました。
新田義貞は、落城寸前にすでに杣山城(そまやまじょう:福井県南条町)に脱出することに成功し、顕家とともに京都を奪回するための準備を進めます。
顕家の死
後醍醐天皇は、奥州の北畠顕家に再上洛を要請します。
越前の義貞と奥州の顕家が合力して尊氏と決戦におよび、京都から追放しようと考えたのでした。
しかし、顕家はなかなか動けない状況に陥ります。すでに東国は、北朝と南朝に大きく分裂して戦いが始まっていたのです。
鎌倉には足利義詮を擁する斯波家長が東国の最高軍事指揮権を掌握し、東国武士らの組織化を進めました。その結果、下野小山氏・常陸佐竹氏らは足利方の有力武将となります。
一方の顕家は多賀城を拠点として奥州の組織化を進め、白河結城氏・南部氏・伊達氏らの有力武将は南朝方となっていました。
津軽では、安東氏や曽我氏が北朝方として蜂起します。彼らは、鎌倉時代には北条氏に近い存在だったことから、建武政権下では抑圧されたので、これを期に勢力挽回をはかったのです。
このように、地方において、各々の武士らのさまざまな思惑とからまりあいながら、南北朝の戦いは激化していくのです。
常陸の後醍醐方の拠点として、那珂氏・小田氏らが立てこもっていた瓜連城(うりづらじょう:茨城県瓜連町)が佐竹氏によって落城すると、1337年(建武四年・延元二年)1月に顕家は伊達氏勢力下の霊山(福島県霊山町)に移ります。多賀城周辺で、留守氏の分裂・抗争が開始されたことも移動の理由でした。
顕家は霊山で戦況を好転させるために必死に努力しますが、関東と津軽に挟まれた状況によって次第に追い詰められていきます。
そのような中で、顕家はついに上洛を決意。
8月、奥州の武士を従えた顕家は霊山を出撃、京都を目指します。
12月には鎌倉を攻略し、斯波家長は戦死します。
1338年(暦応元年・延元三年)1月2日、鎌倉を出た顕家軍は、猛烈な速度で東海道を西へ向かいます。各地で足利方を撃破しながら12日には遠江の橋本(静岡県新居町)、22日には尾張黒田(愛知県一宮市・木曽川町)に到着。
足利尊氏は高師泰・師冬、細川頼之を中心とする大軍を近江・美濃国境に派遣しました。
尾張・美濃国境地帯から青野原(岐阜県大垣市・垂井町)にかけて、高師冬と美濃守護の土岐頼遠が第一の防衛線を敷き、高師泰・細川頼之がその後方の黒地川に第二の防衛線を敷きます。
22日から、青野原で顕家軍と足利軍の戦闘が始まり、顕家軍が圧勝しました(青野原の戦い)。この青野原は、262年後に天下分け目の戦いが行われる「関ヶ原」と同じ地点です。
ところが、足利軍を撃破した顕家は、青野原の後方に布陣する高師泰らとの戦闘を避け、南下して伊勢方面に向かいます。
もし、青野原に続いて黒地川に布陣する足利軍との戦いに勝利し、北近江で越前の新田義貞と連携して京都を目指したならば、京都を奪還することができたかも知れません。
顕家は最大のチャンスを失ったのです。
『太平記』には、顕家が義貞と合流をしなかったのは、顕家が功を義貞に奪われるのを嫌ったからではないか?と伝えてます。
あるいは、4ヵ月におよぶ行軍で疲弊が極限に達し、北畠氏の任国である伊勢で疲弊を回復しようとしたのではないか?とも言われていますし、北条時行が義貞との合流に反対したという説もあります。
北条時行は、最後の得宗北条高時の遺児で、このときは顕家軍に参加していまた。
時行にとっては、義貞は尊氏と同等の謀叛人であって、中先代の乱のときには、謀叛人の尊氏・義貞を討つと公言していました。
顕家は伊勢から伊賀を経て大和に入り、京都を突こうとします。
しかし、京都からは高師直・師冬、今川・上杉らの足利軍が出撃し、般若坂で戦って敗れ、楠木の勢力圏である河内・和泉へ向かいます。
そして、再度態勢を整えて北進し、山城の八幡(京都府八幡市)を占領しますが、足利軍が大軍を送ると形成は逆転。
そして、5月22日、和泉石津(大阪府堺市)の合戦において、武蔵越生(埼玉県越生町)出身の武士である越生四郎左衛門尉に討たれ、21歳の若さで戦死します。
「顕家の諫奏」は戦死の一週間前に書かれたものです。
主な内容としては、中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣して軍事・統治を任せるべきである、租税を3年は減免すべきである、みだりに官位を与えるべきではない、朝令暮改をやめて法を厳しく遵守すべきである、というものでした。
後醍醐天皇の政治を根本から厳しく批判したもので、若くして奥州に派遣された顕家が味わった厳しい現実をもとにした意見だったのです。
義貞の死
後醍醐天皇には度重なる悲運が訪れます。
顕家の死の2ヵ月余り後の閏7月、新田義貞は黒丸城(福井県福井市)の斯波高経を攻撃しようとしますが、越前藤島(福井県福井市)の灯明寺畷において戦死してしまいます。
搦手から藤島城を強襲しようとして、わずかな手勢を率いて水田のあぜ道づたいに馬を走らせていく途中で、足利軍と遭遇し、矢に当たり落命したのでした。義貞39歳。
義貞・顕家の二本柱を失った後醍醐の落胆は、大きなものだったにちがいありません。
南朝再起の計画
後醍醐天皇は新たな反抗計画を画策します。
それは劣勢を一気に挽回するための、南朝が計画した大反抗作戦でした。
その作戦は、後醍醐皇子義良・宗良を伴った北畠親房・顕信(顕家弟)らの大軍を海路で奥州に派遣し、結城氏・伊達氏らの奥州の南朝勢力を糾合するというものであった。
また、懐良親王が征西大将軍に任じられ、五条頼元とともに九州に派遣されました。
顕家の意見に基づき、北と南から反抗の狼煙を上げるという作戦だったのです。
1338年(暦応元年・延元三年)9月、大船団は伊勢大湊(三重県伊勢市)を出港します。
しかし、途中大嵐により散り散りになってしまいました。義良と顕信の船は伊勢に吹き戻され、結局吉野に帰還することになります。
宗良の船は遠江に漂着し、宗良は井伊谷(静岡県引佐町)の井伊氏に保護されました。
この後、信濃・越後等を遍歴しながら南朝勢力を拡大しようとして、北朝と激しい戦闘を繰り広げます。
北畠親房は常陸東条浦に漂着し、小田治久に迎えられて小田城(茨城県つくば市)に入りました。
この後、常陸南朝方を攻撃するために派遣された高師冬軍との間に、約5年にわたって戦いが繰り広げられます。
「常陸合戦」と呼ばれるこの戦いは、局地的な戦いですが、激しい消耗戦となっていきます。
同時に九州でも、懐良の下向にともなって戦争が激化しました。顕家の意見に基づく後醍醐天皇の方針は、戦乱を地方に拡大させ、長期的な消耗戦をもたらすことになったのでした。
後醍醐天皇の死
1339年(暦応二年・延元四年)、南朝劣勢の失意の中で後醍醐天皇は病床に伏します。
そして、皇位を義良親王(後村上天皇)に譲ったあとの8月16日に崩御。
死の間際には、「骨はたとえ吉野の苔に埋めるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(京都)の天を望まん」と述べ、左手に法華経五の巻、右手に御剣を持って息絶えたと伝わります。
人々は天皇の怨霊を恐れ、足利尊氏が天龍寺を造営したのは、怨霊を鎮めるためだったのです。
むすび
南北朝の戦いは、南朝の顕家・義貞の相次ぐ戦死と後醍醐天皇の崩御によって、序盤から北朝優勢で始まりました。
ところが、北朝側では足利直義と高師直による激しい内部分裂が生じ、南北朝時代はますます混迷の度を深めることになります。
コメント