【足利荘】源義国と足利氏発祥の地

鎌倉時代の足利氏
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今回は、源義国を中心に足利氏の発祥について見ていきましょう。

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姓と名字

その前に、簡単に姓と名字について整理しておきましょう。足利氏は源氏です。今回の記事の主人公源義国の先祖の経基王が「源姓」を天皇から賜り、源経基と名乗ったが始まりとされています。

源経基のみならず、平安時代は天皇の皇子たちの多くが源・平などの姓を賜って臣籍降下します。

ところが、時代が下ってきますと、源・平の姓があふれかえり、源何某と名乗ってもどこの誰だかわかりにくくなってきたのです。たとえば、家の周囲に佐藤さんだらけだったら、どこの佐藤さんかわからないのと同じです。

そこで、彼らは自分が住んでいるところの地名や所領を用いて他者と区別しようとしました。

源義国の子源義康・義重の場合、「自分は足利荘に住む源義康」「自分は新田荘に住む源義重」と名乗った方が何かと都合がよくなってきたので、「足利の源義康」「新田の源義重」→足利義康・新田義重となったのです。

もっと現代的に言えば、ashikaga@minamoto、nitta@minamotoです。

足利氏と足利荘の関わり

足利氏の本領は、下野国足利荘(栃木県足利市)です。

従来の説では、足利氏と足利荘との関わりは、源義国(1091?~1155)が父義家(1039~1106)から遺産として継承した足利郡内の開発私領を、鳥羽法皇の御願寺である安楽寿院(あんらくじゅいん)へ寄進したことに始まって、義国は現地荘官の下司職(荘園現地で実務を行う役職)となって足利荘を直接的に支配したことに始まると言われてきました。

しかし近年の研究では、義国は足利荘の現地に住み着いておらず、京都に活動拠点をおいた軍事貴族(京武者)だったことが明らかになってきました。つまり、京都から間接的に足利荘を支配していたということです。

源氏・足利・北条

 

源義国と秀郷流藤原氏

源義国(1091?~1155)は、摂関家の家司を務めていた藤原有綱の娘を母として生まれました。

母親は摂関家に仕えていた家柄ですから、当然京都に住んでいたはずで、義国の出生地は京都だった可能性が高いと考えられます(当時は通い婚です)。

1103年(康和五年)、常陸国(茨城県)で叔父源義光・平重幹ら常陸平氏と5年以上にわたって合戦におよんでいます。義国は、13歳になる頃には東国に下向していたことになります。生年には諸説ありますので、例えば1082年説であれば21歳ということになります。どれが正解なのかはわかりません。

結果は、源義国は叔父義光に敗れた挙句、白河法皇の勅勘(天皇からのとがめ)を蒙り、父義家に義国捕縛命令が下されています。ちなみに、源義光・平重幹にも常陸国司に対して捕縛命令が出ています。ちなみに、この叔父源義光の子孫は甲斐武田氏・常陸佐竹氏の先祖にあたります。

この紛争の背景には、常陸国内の権益をめぐる秀郷流藤原氏と常陸平氏との争いがあったとされています。

義国は常陸平氏と姻戚関係を持つ源義光に対抗する軍事勢力として、秀郷流藤原氏に呼び込まれたのと同時に、父義家が前九年の役(1051~1062)・後三年の役(1083~1087)で北関東に築いた勢力圏の維持をはかったのではないか?と考えられています。

この紛争で義国は敗北し、白河法皇から捕縛命令が出されたりして踏んだり蹴ったりですが、秀郷流藤原氏と緊密な関係を結んでいたようです。実際、義国は秀郷流藤原氏の藤原家綱を家人としています。

藤姓足利氏

平将門を討ったことで知られる藤原秀郷の子孫は秀郷流藤原氏と呼ばれます。

義国の家人となった秀郷流藤原家綱は、藤姓足利氏の祖とされる「足利大夫」成行の孫にあたるとされています。そのため、下野国足利郡を拠点としていたと考えられてきました。ちなみに、源義国の子義康から始まる足利氏は源姓足利氏と呼ばれます。

しかし、藤姓(秀郷流藤原氏)足利成行と家綱の父成綱との関係を裏づける確証的なものはないようです。さらに、藤姓足利成綱・家綱父子は、下野国(栃木県)よりも上野国(群馬県)との関わりが強かったのではないか?と言われています。

なぜかというと、成綱やその一族には、系図上で上野国衙(国司の役所)の肩書を持つ者が見られ、上野国東部の地名を名字とする者が多いからです。

このことから、藤姓足利氏は上野国衙(国司の役所)を中心に上野国に勢力をもつ武士団で、次第に上野国の淵名から旧渡良瀬川を越えて下野国西南部の足利郡と関わるようになったのではないか?と考えられています。そして、藤姓足利氏は両崖山(りょうがいさん)を中心として数千町の地を領有し勢力を誇っていたと言われています

義国、再び京で活動

1109年(天仁二年)、義家死後の河内源氏の棟梁となっていた同母兄の義忠(1083~1109)が殺害されたのを機に、義国は再び京へ上ります。常陸での戦いが終わった直後のことです。

以後義国は、1150年(久安六年)の乱闘事件で鳥羽法皇の勅勘を受けて下野国に下向するまでの約40年にわたって、京に基盤を置く軍事貴族として活躍しました。

久安年間(1145~1150)には、義国は子の義康とともに鳥羽法皇に仕えて北面の武士として院の護衛にあたっています。また、従五位下式部大夫の官職を与えられています。

義国は、かつて白河法皇からも勅勘(天皇の怒り)を受けていますが、鳥羽法皇からも勅勘を受けています。下野国に下向するに至った事件とはどのようなものか見ておきましょう。

義国の乱闘事件

1149年(久安五年)、義国の郎等が鳥羽法皇の皇后の女官の夫や藤原光頼の家人と乱闘を起こして殺害されたため、義国は郎従を遣わせてその者を捕まえた事件が起こりました。この事件は、鳥羽法皇の耳に入り義国の郎従が捕まったといいます。

さらに1150年(久安六年)、右大臣藤原実能と義国が都大路で行き会いになったとき、実能の家人らが義国に無礼なことがあったと言いがかりをつけたため、義国の郎従がこれに怒って実能邸を焼き払う事件を引き起こしています。

義国に非があったのかどうかはわかりませんが、まだまだ武家の身分が低かった時代ですから、義国のこの行為は京都から追放されてもおかしくありません。

義国は生来、気性が荒く「荒加賀入道」と呼ばれていますので、頭に血が上ってやり過ぎたのかもしれませんね。

足利荘の立荘

1142年(康治元年)、安楽寿院領足利荘が立荘されます。義国は、奉仕する鳥羽法皇の寺院である安楽寿院に足利の地を寄進して、法皇を荘園領主(本家)と仰ぎました。また足利に隣接する梁田の地を伊勢神宮に寄進してその御厨(みくりや)、つまり伊勢神宮の所領とすることで、それらの領有権の確保をはかってます。

義国がなぜ足利の地を荘園にしようとしたのかといいますと、この時代の流れにのっとったからという、答えになっていない答えとなります。

この時代は、自ら土地を所有するよりも、院や摂関家といった有力者に土地を寄進することによって、不輸の権・不入の権を獲得しようとする動きが盛んになります。不輸の権は租税が免除される権利で、不入の権は国司の立ち入りを認めない権利のことです。

院や摂関家といった有力者は不輸の権・不入の権を持っていたので、そこに寄進すれば領地を開発した領主はその権利で守られるのです。もちろん、租税回避の対象は国・朝廷に対してであって、院や摂関家には年貢や公事を一定額納めなければなりませんが、自ら土地を所有して租税を納めるより、院や摂関家に寄進して年貢や公事を納めた方が安上がりだったようです。

義国は鳥羽法皇の北面の武士としてつとめていましたから、鳥羽法皇が安楽寿院の財源となる荘園の形成に一生懸命になっていたことを知ることができたと思われます。

また、立荘は寄進された私領をもとに、その周辺にある公領や他領を含めて郡規模の広大な領域をもつ荘園を創出することになるので、国司の協力も不可欠となります。

当時の下野国司(下野守)は藤原資憲で、義国の遠縁にあたる人物でした。義国はこうした縁故を利用して立荘の支援を要請したと考えられています。

このように義国は、鳥羽法皇の北面の武士という立場と下野守藤原資憲との遠縁関係を背景に、家人の足利家綱に開発させた足利郡内の領地を鳥羽院へ寄進し、足利郡内の荘園化=足利荘の立荘を働きかけたと考えられています。

したがって、従来は義国が下司職にあったと考えられていましたが、下司職には実際の現地の開発者となった藤姓足利家綱が補任されたと考えるようになってきたのです。

このように、義国と家綱の足利荘での支配関係は、義国と家綱の主従に基づく分業関係によって成立していたと考えられているようです。

この後、藤姓足利氏は没落し、源姓足利氏が足利荘の実質の支配者となります。

足利荘が後醍醐と尊氏を結ぶ

足利荘を含む安楽寿院領は、のちに鳥羽法皇の皇后美福門院に伝わり、さらにその皇女八条院暲子(しょうし)内親王の御領となりました。

源姓足利氏は、代々八条院の蔵人(くろうど)や判官代に任ぜられています。

その後、この御領は後鳥羽上皇の皇女春華門院などを経て転々とし、亀山天皇に伝わってから大覚寺統の御領となり、後醍醐天皇に伝えられました。

後醍醐天皇と足利尊氏の接点は安楽寿院足利荘にあると考えられています。後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕命令を出したのは主に安楽寿院領の武士たちです。自分の所領ですから、当然と言えば当然です。源義国が足利荘を立荘して約200年近く経ってのことです。

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義国は1155年(久寿二年)6月26日、長男義重の上野国新田荘で死去しました。

源義国の子足利義康

【足利氏祖】足利義康・将来を期待されるも早すぎる死

参考文献

田中大喜編『下野足利氏』戎光祥出版。

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