後醍醐天皇の倒幕計画は、計画メンバーが嫁さんにうっかり口を滑らしたことであっけなく失敗に終わりました。
後醍醐天皇は幕府に釈明し、日野資朝・日野俊基らが主犯格という責任を負ってもらうことでその罪を免れたのでした。
ところが天皇家では、同じ大覚寺統で後醍醐の甥にあたる邦良親王と持明院統が後醍醐天皇の退位を求めて攻勢を強め、天皇家は三つ巴の争いを呈してきましたが・・・。
1326年(嘉暦元年)、後醍醐天皇のライバルだった邦良親王が没します。当然、邦良親王にかわる皇太子をめぐる争いが勃発し、幕府にその判断が求められました。
元弘の変
この時代の幕府は先例主義に陥り、変動する社会に対応できなくななっていました。企業でもこのような状況になると倒産は間近ですが…
幕府は、先例主義と両統迭立の原則にのっとっり、持明院統の量仁(かずひと)親王(のちの光厳天皇)を皇太子に指名します。この決定によって、後醍醐天皇はいずれ光厳天皇に譲位しなければならないことになりました。
後醍醐天皇の宿願である自分の子孫に皇位を継承させるためには、もはや幕府を倒すしか選択肢は残されていませんでした。
後醍醐天皇は子の尊雲法親王(そんうんほっしんのう)を比叡山延暦寺に入れて、そのトップである天台座主(てんだいざす)にしました。尊雲は倒幕を意識して武芸に励んだといいます。尊雲法親王はのちの護良親王(もりよし)で、建武の新政では征夷大将軍に就任し、足利尊氏と激しく対立しました。
後醍醐天皇はその他にも、畿内の寺社勢力や楠木・赤松氏ら悪党勢力まで味方に引き入れました。さらに倒幕のための祈祷も盛んに行っています。
1331年(元弘元年)4月、またもや倒幕計画が幕府に密告されます。密告したのは吉田定房で、後醍醐の側近でした。
今回の密告は、正中の変のようにうっかり口が滑ったというものではなく、吉田定房が皇統の断絶を怖れてやむなく密告したというものでした。
→正中の変
吉田定房の目には後醍醐天皇が世を乱そうとしているように見えていたのです。密告を受けた六波羅探題は、日野俊基らを捕らえて鎌倉へ送ります。
当時の関東申次(かんとうもうしつぎ)は西園寺公宗(さいおんじきんむね)でした。関東申次とは、幕府と朝廷の間の連絡や調整をする役目を与えられた貴族のことです。鎌倉時代後半には西園寺氏がこれを担当していました。
後醍醐天皇は西園寺公宗に対して、すべては魔物のしわざ(天魔の所為)であって自分の責任ではないので、幕府に寛大な措置を求めてほしいと話したといいます。それを聞いた花園上皇は、嘆かわしいことだと日記に書き記しています。
その後、ひそかに京都を脱した後醍醐天皇は、1331年(元弘元年)9月、山城国笠置山へ逃れて倒幕の兵を募りました。それに呼応する形で護良親王は吉野に、楠木正成は河内国赤阪村で挙兵します。
直ちに幕府は、大仏貞直・金沢直冬・足利高氏(尊氏)を大将とする幕府軍を派遣し、笠置山を包囲、これを落とします。楠木正成の赤坂城は10月に陥落し、正成は行方をくらましました。
この討伐軍の大将の顔ぶれを見ると、討伐軍が承久の乱を先例(承久例)として編成された軍であることがわかります。承久の乱では、幕府方の主力軍は北条時房・北条泰時・北条時氏・足利義氏を大将として進軍し、京方を撃破しています。
承久の乱以降は、上洛軍の大将は北条氏・足利氏を大将とすることになっていたのです。大仏・金沢は北条一門です。今回の上洛軍はその先例にしたがっており、ここにも鎌倉幕府の先例主義を見ることができます。
幕府は後醍醐を退位させて、承久の乱で後鳥羽上皇を処分した先例にしたがって隠岐に流しました。配流も承久の乱の先例に従います。
日野資朝・俊基らは処刑されました。この事件は元弘の変と呼ばれていますが、1333年(弘安三年)幕府滅亡までの一連の乱を指している場合もありますので、適宜ご判断くださいませ。
変わらない幕府の朝廷政策
今まで見てきたように、鎌倉幕府は幕府軍の大将から後醍醐天皇の処分まで先例主義に則って政策を決定しています。
朝廷では後伏見上皇の院政のもとで持明院統の光厳天皇が即位します。そして皇太子には、大覚寺統の邦良親王の子で康仁親王が選ばれました。
大覚寺統(後醍醐派ですが)によって倒幕運動が行われているにも関わらず、ここでも幕府は両統迭立の原則を変えていません。
幕府は皇位を左右するほど影響力がありましたが、皇位を思うがままにしようと考えていないどころか、頑なに先例を守り続けています。
先例に歯向かう後醍醐天皇や楠木正成・赤松円心の悪党とは対照的に、愚直なまでに先例に従う幕府という構図が生まれていました。
コメント