足利尊氏によって攻め滅ぼされた六波羅探題シリーズ。
今回は、六波羅探題と鎌倉幕府・鎮西探題の違いと、長官としての六波羅探題にスポットを当てましょう。
前回までは、鎌倉幕府の一機関としての六波羅探題でした。
文書の署名に見る鎌倉・鎮西との違い
六波羅探題が鎌倉幕府や鎮西探題と違う性格を持っていたということは、六波羅探題北方南方の両探題が署名して発給する文書からわかります。
六波羅探題が裁許(審査をして許可すること)を下す文書のことを、六波羅下知状(ろくはらげちじょう)とよびます。
この文書は、「下知件の如し(げちくだんのごとし)」という文末で終わるのが特徴です。これを書止文言といいます。
六波羅下知状と鎌倉幕府や鎮西探題が発給する下知状とでは書止文言が異なっています。
幕府が裁許を下す文書を関東下知状とよび、鎮西探題の裁許を下す鎮西下知状といいます。
そのいずれも、文末には「仰せに依り(おおせにより)、下知件の如し(げちくだんのごとし)」と書かれます。
この「仰せ」とは、一般的には将軍の命令のことです。
しかし、六波羅探題の場合には、将軍の命令を伝えているという表現の「仰せに依り(おおせにより)」がありません。
その理由は、六波羅探題が朝廷のための武力機関という性格を持っていたからと考えられています。
六波羅探題は、幕府の機関であり朝廷の軍事・警察を担当する組織でもありました。
ということは、六波羅探題が裁許を下す際には「将軍ではない別の誰か」の意志が働くことがあったのでしょう。六波羅は京都にあるのですから、朝廷や寺社あたりと考えられます。
彼らは将軍ではありませんから、六波羅下知状には、将軍の意志を示す「仰せ」という文言が書かれなかったということです。
将軍や執権ではなく、別の勢力の意向をくみ取らなければならない六波羅探題の苦労が見え隠れしてきませんか?
幕府の一機関の長官にしか過ぎない探題が、一癖も二癖もある朝廷や寺社の要望を聞き入れ、下知状として発給しなければならない苦労をうかがい知ることができます。
六波羅は北条一族の独占ポストで、北条氏の京都での私利私欲の権化をイメージしてしまいがちですが、探題になった北条の人は、それはそれで骨の折れる仕事だったにちがいありません。
同じ制度でも鎌倉と違う六波羅の実情
鎌倉幕府に遅れるかたちで、六波羅探題にも評定衆や引付が設置されていきましたが、六波羅の制度は鎌倉の制度と性格が異なっていたようです。
鎌倉幕府の評定衆や引付は、北条一族や姻族によって占められていますが、六波羅の評定衆や引付頭人には、北条一族がほとんどみられません。
長井・伊賀・二階堂・町野といった官僚(文士)が、多くを占めています。さらに、彼らの中には、朝廷や公家と個別に関係を結ぶ者も多かったようです。
彼らは、当初は鎌倉幕府の官僚でしたが、北条一族の幕府要職の独占化によって、六波羅でその地位を確保していきました。
引付方に属する奉行人も、安富・斎藤・宗像・伊地知・飯尾・雅楽・松田・津戸・関・雑賀などの西日本に拠点をもつ御家人で構成されていました。六波羅には北条氏の被官(家来)は少なかったのです。
さらに、六波羅の評定衆は京都でその地位を世襲していきます。それに対して、探題は鎌倉から上洛し、在任期間が短く頻繁に交替しています。
ですから、長官としての探題は、六波羅評定衆などの職員と個人的に深い関係を結ぶことができません。
そのため、探題となった北条氏は、守護などに使者を派遣して六波羅の方針や意思を伝える場合、自分の被官を使者にするのがほとんどだったようです。探題個人が被官を介して西国を支配していたと言えます。
探題個人と六波羅評定衆や奉行人との関係は、鎌倉の得宗・執権と評定衆・奉行人との関係よりも希薄なものでした。そして、六波羅探題では、評定や引付の整備が進めば進むほど、探題職員と探題個人の関係は希薄になっていきます。
なぜ、探題と探題職員の関係が希薄になるような運営を幕府は行ったのでしょうか。
それは、かつての承久の乱の反省があったと思います。
承久の乱のとき、六波羅探題の前身である京都守護の一人、大江親広が後鳥羽上皇方について幕府の敵となり、西国の武士がこれに従ってしまったという苦々しい過去が幕府にはあります。
幕府としては、在京御家人の探題職員と探題の関係が強くなり、さらに朝廷と結びついて幕府に反抗することを避けたかったのでしょう。
六波羅が敵対勢力にならないように十分注意を払ったに違いありません。
永仁年間(1293~1298)以降になると、六波羅探題の機能を強化させるために、より力量のある人物が探題に選ばれました。
1297年(永仁五年)、大仏流北条宗宣が探題南方に就任します。宗宣は南方でしたが執権探題として起用されています(従来は北方が執権探題)。
それまでの宗宣は、越訴奉行や四番引付頭人を歴任し、寄合衆にもなっていました。宗宣の父は連署の大仏宣時です。
1297年(永仁五年)は、西国で「永仁の徳政令」が発布された年です。
徳政令を実施する際に、鎌倉での豊富な経歴をもつ宗宣の力量が期待されたのでしょう。
執権北条貞時は、連署と六波羅探題に大仏父子を配置して徳政令の実効性を高めようとしたことがわかります。
宗宣以降は、南方であっても執権探題に就任することが可能となったようで、宗宣もその後は連署、執権と出世の階段を上っていきます。しかしその頃には、鎌倉北条氏も御内人長崎氏に牛耳られ機能しなくなっていたのでした。
むすび
長官としての六波羅探題を見てきましたが、いかがでしたでしょうか?
探題という職は、得宗や執権の鎌倉の意向を仰ぎながら、朝廷や貴族・寺社ともつながっている在京御家人の評定衆や奉行人とともに仕事をし、何かにつけて六波羅探題に訴えでてくる朝廷や貴族・有力寺社とわたりあうという難しい役割を担う骨の折れる役職でした。
北条氏の独占ポストではありますが、北条氏でなければこの役をこなすのは無理ではないのか?と思ってしまいます。
もしこなすことができるとすれば、後世になりますが、足利直義以外に思いつきません。それは、またの講釈ということで。
探題は骨の折れる仕事だったのです。
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