1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の2度目の倒幕運動は失敗に終わりました。後醍醐天皇は幕府に捕らえられて隠岐へと流されます。
→元弘の変
しかし、その余波は畿内だけでなく各地に広がっていきました。
後醍醐天皇の皇子護良親王が吉野で蜂起し、それに呼応して楠木正成・赤松円心らが蜂起しましす。隠岐に流されていた後醍醐天皇は脱出して、名和長年の援助を得て伯耆国船上山に籠もります。
各地で起こった反乱を、六波羅軍だけでは鎮圧できないと判断した幕府は、足利高氏らを大将とする軍勢を上洛させます。
ところが、足利高氏は後醍醐天皇が籠もる船上山に向かう途中の丹波国で謀叛をおこし、赤松円心・千種忠顕らと共に六波羅探題を攻略します。
六波羅探題北方の北条仲時ら六波羅勢は鎌倉を目指して落ち延びようとするものの、伊吹山の麓で倒幕勢に行く手を遮られ、番場宿(滋賀県米原市)の一向堂(現蓮花寺)で従者430名とともに自害し、六波羅軍はここに全滅したのでした。時に、1333年(元弘三年)5月9日のことでした。
一方、上野国では新田義貞が蜂起しました。勢いに乗った新田勢は周辺の武士たちを巻き込みながら幕府軍を次々と破り、鎌倉での壮絶な戦いを制しました。1333年(元弘三年)5月22日、得宗北条高時ら北条一族はことごとく菩提寺の東勝寺で自害し、ここに北条一族は全滅。源頼朝以来の鎌倉幕府は滅亡したのでした。
阿蘇治時と赤橋英時
阿蘇治時
少し時間を戻して、九州での動きを見てみましょう。
→鎮西探題の記事
金沢流北条実政・政顕と続いた鎮西探題は、代理の金沢種時を挟んで、阿蘇流北条随時(ゆきとき)が就任します。随時は鎮西探題として将来を期待されていましたが、1321年(元亨元年)6月23日に31歳の若さで没します。
幕府は次の鎮西探題を選ばなければならなくなりました。
探題になるには条件があったと考えられます。
- 鎌倉から派遣される形をとる
- 引付頭人かその名代(代理人)
- 鎌倉出身者でない者は探題になれない
随時には治時という子がいましたが、彼は当時まだ4歳。父の随時が幕府の二番引付頭人となっていた時期には生まれていないので、鎌倉の地を踏んだことはありません。ですから、彼は探題の条件を満たすことはできないのです。
そもそも4歳ですから、実務能力が求められる探題には間違ってもなれないのですが…
治時はその後、得宗北条高時の養子となります。1333年(元弘三年)1月、楠木正成が籠もる赤坂城攻めの大将として出陣し苦戦の末、赤坂城の水を絶ち陥落させたといいます。
同年5月、千早城の攻撃中に六波羅探題の全滅を聞き、奈良の般若寺で出家して降伏しました。
7月9日、北条の残党が反乱を起こすことを恐れた建武政権によって京都東山阿弥陀峯で処刑されます。享年16歳。阿弥陀峯は豊臣秀吉を祀る豊国廟があることで知られています。
赤橋英時
治時の父である鎮西探題の随時死後、幕府は再び探題を選ぶ必要がでてきました。
探題になることができるのは、鎌倉出身で幕府の一番引付頭人の名代クラスです。この時の一番引付頭人は、2年前に再任した赤橋守時でした。守時は当時25歳で、子がいたとしてもその子供はまだ幼かったと考えられます。
そこで指名されたのが、守時の弟の英時でした。英時の年齢は不詳ですが、守時が25歳ですから20歳過ぎくらいでしょうか。
こうして英時が、一番引付頭人である守時の名代として鎌倉から鎮西に派遣されたのでした。
1321年(元亨元年)12月頃までには、探題としての活動を始めています。英時の発給した裁許状(判決文のようなもの)は200通以上におよび、探題職にまい進していたことが想像できます。その功績もむなしく最後の鎮西探題として名を遺すこととなりました。
鎮西探題滅亡
菊池合戦
1333年(元弘三年)3月12日。六波羅探題陥落から1か月半も前のこと。来るべき時代の主役、まだ足利尊氏が鎌倉を出陣していない頃のことです。
鎮西の御家人菊池武時が探題館に出仕しました。あらかじめ探題赤橋英時から九州各地の武士に召集があったといいます。
出仕の確認には、集まった武士たちの名前を順に記す「着到」とよばれる名簿を作る方法をとることが一般的でした。この時には、探題奉行人の下広田久義が名簿の作成を担当しました。
ところが、この着到をめぐって事は大きくなります。菊池武時が遅参したことを理由に下広田久義は着到への記入を拒否します。
遅参していないことを主張する菊池武時と下広田久義との間で押し問答が続き、口論にまで発展しました。結局、武時の名前は着到に記されませんでした。
同年5月13日、腹の虫が治まらなかったのか、もともとその気でいたのか明かではありませんが、菊池武時は挙兵におよびます。
菊池勢は博多中のいたるところに火を放ち、松原口辻堂から探題館に攻め入ろうとしました。しかし、思ったように攻め入ることができなかったので、早良小路を経由して櫛田浜口から攻撃をしかけます。
この博多での放火を菊池武時の仕業と確信した探題方の武蔵四郎・武田八郎らは、息浜にある菊池氏の宿所に攻撃を仕掛けました。
ところが、すでに出陣していた菊池勢は宿所にいません。武蔵・武田らは、須崎を回って櫛田浜口へと向かい、そこで菊池勢と衝突します。
菊池武時は、鎮西のドンと言うべき少弐貞経・大友貞宗と事前に申し合わせて、同時に挙兵する手はずになっていました。
ところが、どういう風の吹き回しからか少弐・大友氏は挙兵しませんでした。
結局、菊池勢は敗北を喫し、討ち取られた200あまりの首は犬射馬場にさらされたと伝えられています。この戦いを菊池合戦といいます。
鎮西探題滅亡
鎮西探題の赤橋英時は、反幕府勢力の一掃を目指して追っ手を派遣しました。この頃の九州は畿内での状況とは違い、探題勢が優勢だったのです。
しかし、5月7日に六波羅探題が陥落し、関東で幕府方の劣勢が明らかになってくると、九州でも状況が大きく変わってきます。
菊池合戦の時に、菊池氏を裏切った少弐氏や大友氏らが倒幕行動にでます。
この頃には、六波羅探題を攻撃する前に丹波国に駐屯していた足利尊氏が、後醍醐天皇からの命令に従って倒幕に参加するよう、九州をはじめとする武士たちに書状を送っていました。このことが少弐・大友氏らの背を押したのかもしれません。
探題赤橋英時は四面楚歌の状況に陥ります。鎮西はそもそも鎌倉から遠く、六波羅軍が全滅した今、援軍を求めることは絶望的でした。
そして、九州各地から集まった武士たちの攻撃を受け、5月25日に赤橋英時らは自害して鎮西探題は滅亡したのでした。このとき、阿蘇随時が探題に就任する前に、鎮西探題の代理として活動していた金沢種時も自害します。
赤橋英時は和歌をこよなく愛した武将で、勅撰和歌集「続後拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」等に六首載せられており、英時の姉妹や鎮西奉行人の名も見えることから、鎮西において二条歌壇という和歌の流派を興隆させていたと考えられています。
鎌倉・六波羅と異なった鎮西探題の滅亡
鎮西探題滅亡で特徴的なのは、2カ月前の菊池合戦では探題方が勝利していることが挙げられるでしょう。この時から探題の滅亡の直前まで、九州の有力武士たちは探題方についているのです。
六波羅の陥落や関東での幕府方の劣勢を聞いてはじめて、探題を攻撃しています。
鎌倉幕府滅亡の理由として、蒙古襲来で九州で戦った武士たちが恩賞を十分にもらえなかったことに不満を抱き、その不満が爆発したと言われますが、菊池合戦から探題滅亡までを見ている限り、その説は違うような気がします。
確かに幕府は、武士たちの恩賞要求に十分に応えることはできなかったようです。しかし、九州の武士たちは、鎌倉から派遣される異国討手大将軍や探題を受け入れ、異国警固番役を負担し、石塁を造営し、六波羅・鎌倉の情勢が明らかになるまで幕府側についています。
本当に幕府に不満がたまり、爆発するレベルであれば、後醍醐天皇が挙兵すると同時に動くはずでしょう。
九州の武士たちは幕府に不満がくすぶっていたものの、金沢政顕や阿蘇随時、赤橋英時ら探題がうまく機能し、九州の実情にあった統治に成功していたのではないでしょうか。
そんな鎮西探題も、九州の武士たちにとっては鎌倉幕府がなくなれば「用無し」という単純な理由で滅んだのかもしれません。
コメント