鎌倉時代の前半は「御家人」という用語がたくさん出ていきますが、後半にもなるとその「御家人」が減って、「御内人(みうちにん・みうちびと)」がやたらと出てきます。字も非常に似ており、「家」と「内」しか違わないので、ややもすると御内人を御家人と読み違えたり、御家人を御内人と読み違えたりと、少々ややこしいわけです。
そして、御内人と御家人ってどう違うの?どっちが偉いの?と訳がわからなくなっていくわけです。
鎌倉時代が大好きな人ならば、よだれがこぼれそうなくらい香しい「御内人」ですが、好きではなかったり、関心を持ち始めたばかりの時はどうしても混乱をもたらす用語と思うのです。
というわけで、今回は簡単ながら御内人について確認しておきたいと思います。
得宗(とくそう)についても解説。執権と得宗、ややこしいですよね。
得宗家御内人
得宗家御内人とは、北条得宗家に仕える被官・家人のことです。それに対して、一般のご家人を外様といいました。幕府は北条氏のものという意識が垣間見えます。
御内人が北条氏以外の御家人を外様と呼ぼうがなんと呼ぼうが、将軍との関係から言えば、御家人がより直接的な主従関係にあります。御内人は御家人の一つでしかない北条氏の家来にしか過ぎませんから、将軍から見れば御内人は家来の家来、つまり陪臣となります。
つまり、北条氏被官も足利氏被官も将軍から見れば同じ陪臣です。
しかし、得宗の権力が強化されるとともに、幕府内での彼らの勢力は増大することにります。得宗家が他の御家人より頭が1つも2つも抜きん出るわけですから、その被官の位置も高くなります。上司が出世すれば部下も出世するようなものです。
御内人は、北条得宗家の家政機関である公文所に出仕して、全国に広がる北条氏領の管理にあたりました。そして、得宗家領内で貿易や金銭の貸し付け、土地の売買をなどを行い、大きな経済力を有してきます。弘安徳政は、この御内人の経済的基盤を脅かす政策を行ったことから、御内人の反発を生んだのです。
執権政治が確立したとされるのは、北条義時が政所・侍所両別当(長官)を兼務するようになってからですが、執権が侍所別当に就任すると、侍所所司(次官)には御内人が主に就任するようになりました。
侍所は御家人を統制し、鎌倉の検断(警察)を担当する機関です。その機関の長に御内人がなるのですから、御内人の権力は御家人を凌ぐ大きなものになっていきました。
この所司には、平氏(長崎氏)が代々世襲していきます。さらに長崎氏は「寄合」という得宗のもとでの私的な合議機関、実質的には最高議決機関にも参加しています。
長崎氏以外の代表的な御内人としては、尾藤・諏訪・安東・関・万年・金窪・宿谷氏などがいました。
御家人の御内人化
北条氏というのは、時政の祖先については明らかになっていない氏族です。時政の父や祖父でさえ正確に伝わっていません。
伊豆国の役人だったのではないか?と推定されるものの、三浦氏・千葉氏・大庭氏のような大豪族でもなく、先祖代々伊豆国に根付いていたわけでもなく、少なくとも頼朝が挙兵におよぶまでは、時政と息子二人(宗時と義時)で細々と生きていた中小豪族とよぶ方が相応しいのです。
ですから、「先祖代々従っています!」というような郎従は少なかったわけです。
それでは、北条氏の急成長にともなって、それを支える御内人はどこから来たのか?という話になりますが、御内人の多くはもともと御家人だったと言われています。
将軍と主従関係を結ぶよりも、北条氏と密接な主従関係を結ぶことによって生きのびることを選択した御家人たちと言えるでしょう。
さらに、中小の御家人の中には、有力な御内人の郎従となるものがあらわれ、御内人の勢力はさらに拡大していきます。そして、有力御内人の中で、特に強大な勢力を誇ったのが内管領平頼綱でした。
内管領とは北条氏の家政を統括する職で、御内人の筆頭でもありました。この頼綱を中心とする御内人が、安達泰盛の最大の対抗勢力になっていったのです。
御内人のその後
北条貞時の後を継いだ高時の時代になりますと、長崎高綱(入道円喜)・高資父子が御内人筆頭の内管領となり、その力は得宗家をも凌駕するようになります。御内人は益々経済力を強め、新たな富裕層になっていきます。
その一方で、鎌倉時代後半を襲った飢饉によって御家人や農民の多くが窮乏し、その怨嗟の声は御内人を統御できない得宗家に向けられていきます。
こうした中、後醍醐天皇を中心とした倒幕運動に拍車がかかっていくのです。
鎌倉幕府滅亡によって、御内人の多くは北条氏とともに滅亡しましたが、御内人の中には室町幕府・江戸幕府を生き抜いた者もいます。
諏訪氏・安東氏が有名です。
特に諏訪氏は、古来より諏訪大社の大祝で、武田信玄・勝頼に縁の深い一族であることはあまりにも有名な話です。
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