鎌倉幕府が滅亡した要因はたくさんあります。蒙古・御家人の不満・悪党・御内人の専横・北条氏の幕府独占などなど。
しかし、意外と語られないのが、鎌倉後期の社会背景です。「全ての原因はこれかもしれない」と思える要因。
タイトル通り「飢饉(ききん)」です。鎌倉時代後期は「飢饉の時代」だったのです。
「食うのが大変」というのは、思いっきり社会不安を増大させるもの。御家人も領民も大変だったのです。
鎌倉時代後期の飢饉・干ばつ・大雨
鎌倉後期最大の飢饉
鎌倉時代後期に襲った大きな飢饉は、1253年(建長五年)~1255年(建長七年)と1257年(正嘉元年)~1259年(正嘉三年)にかけて発生しています。
この飢饉は「天下餓死、餓死者その数を知らず」、さらには「国衰亡」とまでいわれた鎌倉後期最大の飢饉だったのです。執権北条時頼の時代です。
元寇と飢饉
鎌倉時代後期最大と言われた飢饉から20年後の文永年間も飢饉が続きました。
特に1272年(文永九年)~1274年(文永十一年)にかけては、干ばつによる不作と飢饉が続きました。
そして、1度目の蒙古襲来である「文永の役」は、このような飢饉状況の中での戦いだったのです。
弘安年間(1278~1288)になると、毎年のように大雨や暴風雨が続き、朝廷では雨を止めるための祈祷が行われました。
2度目の蒙古襲来である弘安の役の際に元軍船を壊滅させたのも、この時期に続いて日本を襲った暴風雨の中での出来事だったと考えられます。
この2度にわたる蒙古襲来での戦費は御家人の自己負担だったので、干ばつや大水による不作や飢饉は武士や領民を経済的に苦しめました。
8代執権北条時宗の時代です。
永仁の徳政令と飢饉
1295年(永仁三年)は、大雨や大風が続き、「天下一同大損亡」と言われた年でした。
同じ状況は翌年も続き、永仁五年三月に発布された「永仁の徳政令」は、このような中で出されたのです。
しかし、徳政令の翌年も「大飢渇」とされる状態は続きました。
2度の元寇で御家人たちは飢饉の中、何とか費用を工面して元軍と戦い、その後の異国警護番役も飢饉の中で対応していました。
それをよく理解して発布したはずの北条貞時の徳政令は社会に混乱を招いただけの結果となります。
幕府滅亡と飢饉
14世紀に入ると、ますます飢饉の連続という状況になっていきます。
1304年(嘉元二年)から1306年(嘉元四年)にかけて干ばつによる飢饉となり、さらに1309年(延慶二年)からも「天下飢饉」とされる全国的な飢饉となります。
さらに、全国的な疫病の流行がさらに追い打ちをかけました。それは、1312年(応長二年)に「天下豊饒」と称されるまで続きました。
1311年(応長元年)、北条貞時が死去し、高時が跡を継ぎますが、まだ9歳。貞時の遺言により、得宗被官で内管領の長崎高綱と安達時顕が政治を牛耳るようになり、執権も得宗(北条家督)もお飾りとなっていくのです。
しかし、「天下豊饒」は長続きせず、1314年(正和三年)から1315年(正和四年)にかけても飢饉の年となります。
さらに、1321年(元亨元年)には「大干・大飢饉・餓死」とよばれる飢饉となり、1325年(正中二年)には「天下大洪水・田畑水損・飢饉」となります。
前年の1324年(元亨四年)に、後醍醐天皇の1回目の倒幕計画が発覚します。
1329年(元徳元年)になると、疫病が流行し「人民多死」となります。
そして、1331年(元弘元年)に始まる後醍醐天皇の2度目の倒幕計画である「元弘の変」に始まる内戦によって、鎌倉幕府は滅亡に至ります。
1311年(応長元年)に北条氏の家督を継いだ得宗・北条高時の時代は、飢饉・干ばつ・洪水・疫病の連続だったのです。
度重なる飢饉がもたらした体制崩壊
鎌倉後期のこのような飢饉・疫病の連続は、荘園現地の荘民(領民)に生きるか死ぬかの選択を迫りました。
それは、荘園領主や地頭に「領主」としての責任を厳しく問うことになり、領主として資格のない者は、領民によって捨てられる現象を生み出します。
悪党が地域のリーダーと化していくのも、このような領民の動きがあったからでした。
このような、在地の社会不安の増大は、政権担当者としての幕府・朝廷を大きく揺り動かしていくのです。
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