1199年(正治元年)1月13日、鎌倉幕府初代将軍源頼朝はこの世を去りました。享年53歳。
頼朝は平家滅亡後独裁者として君臨し、意に従わない源家一門を次々と粛清していくなど、その凶暴性を増していました。死因については、一般的には落馬によるものと言われていますが諸説あって定かではありません。ただ、長い闘病の上の死ではなく、急死だったことは確かなようです。
そのあとを継いだのは、若き嫡子の源頼家(1182~1204)でした。このとき頼家は18歳。
頼朝が突然死去してから一週間後の1月20日、頼家は左近衛中将に補任され、さらに26日には頼朝の後を継いで諸国守護を奉行すべき宣旨(天皇の命令書)が下されました。朝廷は頼家を二代将軍として正式に認めたのでした。
頼家が鎌倉殿に就任した頃の幕府の事情
1199年(正治元年)2月6日、政所において、将軍が政務を行う儀式である政所始が行われました。大江広元・三善善信(康信の出家名)・源光行・二階堂行光ら文士官僚の他に、三浦義澄・八田知家・和田義盛・梶原景時、乳母父の比企能員、外祖父の北条時政ら有力御家人が参列しました。
頼家の鎌倉幕府は、頼朝に引き続き文士官僚と関東有力御家人から構成されていたことがわかります。
ここで、頼朝時代の官僚と御家人の関係を少し振り返っておきましょう。頼朝の軍事基盤は言うまでもなく関東御家人たちでしたが、御家人たちは行政事務に関しては疎かったため、頼朝は京都の下級貴族を鎌倉に呼び寄せ幕府機構を整備していきます。
平家滅亡・奥州藤原氏が滅亡したのちは、幕府機構の要職を務める文士官僚が、関東御家人たちに優越するような様相を見せ始めていました。
つまり、文士と御家人の間に対立関係が生まれてきていたのですが、頼朝生存中は彼の政治手腕のもとで一応の調和が保たれていました。その頼朝が急死したのです。話を元に戻してみていきましょう。
頼家の失策
1199年(正治元年)2月、頼家が鎌倉殿として出発した直後、三左衛門事件と言われる源通親襲撃未遂事件が発覚します。
源通親は、頼朝の娘大姫の入内を画策した人物で、摂関家の九条家を朝廷から一掃し、後白河法皇の死で途絶えていた院政を後鳥羽上皇で復活させた「ヤリ手」の公家です。
頼朝の義弟だった公家の故一条能保・高能の遺臣で、鎌倉御家人でもある後藤基清・中原政経・小野義成らが、後鳥羽院政の権力者で権大納言源通親の襲撃を計画したのです。
しかし、事前に発覚し頼家の雑色に捕らえられて後鳥羽院庁に引き渡されたのでした。なぜ、彼らが源通親を襲撃しようとしたのかは、史料がないことから真相は明らかになっていないようです。
さらに、親幕派だった西園寺公経・持明院保家・源隆保らの公卿も朝廷の要職から外されることとなります。しかも、これらの一連の処置はすべて新鎌倉殿頼家の了承のもとで行われたのでした。
この理由として、頼家が妹三幡を入内させたいという希望があったため、源通親に従ったと言われています。父頼朝も娘大姫を入内させようとして、源通親の機嫌をうかがっているうちに親幕派の摂関家九条家が源通親に追放されるという失態をさらしています。
いずれにしても、頼家は鎌倉御家人と親幕派の公家たちを保護しなかったのです。
その後、後藤基清は讃岐国の守護職を没収され、後任には近藤国平が選ばれました。「吾妻鏡」は「頼朝の時に定められたことが改定された最初の例である」と記しています。頼朝が死んで間もない時期に、頼朝時代に築かれた先例が頼家によって早くも覆されたことは、御家人の不安をかきたてたに違いありません。
さらに、近藤国平は頼朝の側近ではありましたが、在地領主の有力御家人というわけでもなく、武勇で名をとどろかせた人物でもなかったようです。
御家人を保護できない将軍に対し、鎌倉の有力御家人は一斉に反発しました。つまり、「御恩と奉公」の関係が崩れたのです。
13人の合議制
1199年(正治元年)4月12日、頼家が鎌倉殿になってわずか2か月のこと。頼家が訴訟に直接判決を下すことが停止され、北条時政ら13人の合議によって判決が下されることになりました。
この13人とは、有力御家人の北条時政・北条義時・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時の9人と、文士官僚の大江広元・三善善信・中原親能・二階堂行政の四人から構成されていました。
頼朝死後、有力御家人と官僚の対立が表面化しつつあったと考えられますが、13人の合議制を設置したことを契機に、両者は調整を試みるようになります。
実際、この13人の合議制は十分に機能はしなかったようですが、この幕府の最高意思決定機関の構成メンバーに北条時政・義時父子が加わったことで、北条氏が権力掌握へ進む足がかりを得たと考えることができます。
もっとも、この頃の北条義時は江間義時と呼ばれ、北条氏というより庶子家江間氏としてメンバーに参加していますので、この時点では北条氏が他の御家人より優勢になったとは言えません。
つまり、13人の合議制に北条氏は2人いるように見えますが、北条氏は時政1人ということです。北条氏の台頭はもう少し先になってからで、13人の合議制は足がかりなのです。
頼家の強硬策と反発する御家人たち
13人の合議制が敷かれたことに対抗するかのように、頼家は新たな側近官僚を作り上げようとしました。
梶原景時と中原仲業の二人は政所に対して、
「小笠原長経・和田朝盛・比企宗員・比企時員・中野能成らは、鎌倉においてたとえ乱暴を働いたとしても、これに敵対してはならない。もし違反する者があれば罪科に処するので名簿を注進するように、近辺に連絡するべきである。また、彼ら5名の外は特別の命令がなければ、頼家の御前に参ることは許されない。」
と命令しています。
そして、1199年(正治元年)12月、頼家と御家人・官僚の仲が決定的となる事案が発生します。
頼家は政所に命じて諸国の大田文(田地の面積・支配関係などを記録した土地台帳)を提出させ、僧の源性に田数計算を始めさせました。
頼家は治承以来の勲功として新たに給与された土地を五百町以上を所有する御家人に対して、その超過分を没収し、所領を持たない側近に与えようとしたのです。
当時、御家人にとって所領とは「一所懸命」でしたから、頼家が行おうとしていることは「御恩と奉公」に基づく御家人制度に手を加えようとするものだったのです。
頼家がいくら若いからと言って、所領が御家人にとってどのようなものかを知らないはずがありません。それを知っていて敢えて500町以上の所領の没収を断行しようとしたのです。
この理由として、頼家が13人の合議制を敷く幕府宿老格の御家人・文士の勢力を削減し、所領をもたない御家人に分け与えることで、御家人の勢力を均一化し、頼家の権威を向上させようとしたと考えられます。
頼家は、自分の置かれた立場が父頼朝とは違う状況にあることを理解していたと考えられます。
頼朝が独裁政治を行えたのは、頼朝の器量にその源泉がありました。しかし、その頼朝のあとを継いだ頼家が父と同じ器量を持っていないことは、頼家が一番よく理解していたのかもしれません。
その発端が、三左衛門事件における後藤基清の処分に対する有力御家人たちの反発だったのではないでしょうか。すなわち、父頼朝が頼家と同じ処分をしたとしても、有力御家人は頼朝に反発することはなかったでしょう。だからこそ、頼家は頼家なりの強い将軍を目指したに違いありません。
しかし、頼家の強硬策は裏目に出ます。頼家の政策に反対したのは御家人だけでなく、三善善信以下の文士官僚たちも含まれていました。
三善善信は京都から鎌倉に下向した行政官僚の筆頭ですが、地頭にも任ぜられており、備後国太田荘(広島県世羅郡)は613町歩もあり、500町歩を上回っていました。大江広元や中原親能ら有力文士も同じくらい所有していたと考えられます。行政官僚たる文士たちも、御家人同様に頼朝から新恩給与されていたのです。
頼家の強硬策は、頼朝死後に対立する可能性のあった有力御家人と文士官僚たちの利害を一致させることになってしまったのです。
したがって、御家人と官僚たちにとって、頼家が頼朝のように独裁政治を行うことだけは避けなければならなくなり、そのためには頼家の側近勢力と後見勢力を削ぐ必要が出てきたのです。
その側近・後見勢力こそが、梶原景時や比企能員だったのです。
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