九代執権・北条貞時の生涯~混乱と壁に当たり続けた得宗

鎌倉時代
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北条貞時は9代執権で、北条得宗家の当主です。貞時の時代に得宗専制政治が確立したと言われています。しかし、貞時が本当に専制政治といわれるほどの「専制」をできたのか?と考えると疑問に感じるわけでして・・・

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誕生から家督相続まで

1271年(文永八年)12月12日、父は北条時宗と母は安達義景娘で堀内殿(兄安達泰盛の養女となる)。幼名は幸寿丸。1277年(建治三年)12月2日に7歳で元服し、貞時を名乗ります。

1282年(弘安五年)6月27日、左馬権頭に補任され、同日叙爵されています。

1284年(弘安七年)4月4日、父時宗が34歳で死去すると、貞時が家督を継ぎました。このとき武蔵国・伊豆国・駿河国・若狭国・美作国等の得宗守護国も継承しました。7月7日、14歳の若さで執権に就任。

そして、1285年(弘安八年)4月18日には相模守に任じられ、23日左馬権頭を兼任しました。

御家人安達泰盛と御内人平頼綱

父時宗の時代は、元寇という外敵に対処するため、北条一族の当主である得宗に権限が集中していきました。その得宗を支えたのが、外様勢力(北条一族・被官以外の御家人)の代表格だった安達泰盛です。泰盛は得宗家の外戚・後見人として権力を手中におさめていました。

一方、内管領平頼綱を中心とする御内人(得宗家被官)が勢力を拡大しつつあり、安達泰盛の対抗勢力としてその存在感を強めていました。

時宗の政治権力は、この2つの勢力の微妙な均衡の上に成り立っており、逆に時宗の手腕によって両者の衝突に発展することはなかったのです。

しかし、時宗が没するとこの均衡関係が崩れます。

安達泰盛は、時宗が没したあと出家しますが、依然として貞時の外祖父・後見人として幕府の中枢にありました。そして、「弘安徳政」と呼ばれる改革を推し進めます。この改革は元寇によって窮乏していた御家人を救う内容のものでしたが、一方で朝廷などの荘園領主や御内人の権益を圧迫するものであり、幕府に対して反発が起こりました。

 

【弘安徳政】情けの武将安達泰盛の政治
1281年(弘安四年)、鎌倉幕府は元軍による侵略を防ぎ止め撤退に追い込むことに成功しました。 文永の役記事 弘安の役記事 翌年の1282年(弘安五年)、執権北条時宗は南宋出身の僧侶の無学祖元(むがくそげん)を迎えて、鎌倉に円覚...

 

そして、1285年(弘安八年)11月17日、世に言う「霜月騒動」が起こります。執権貞時を擁した平頼綱以下の御内人勢力と安達泰盛率いる安達一族の戦いは、将軍御所を焼失する激戦となりましたが、安達泰盛の敗北に終わり、泰盛はもちろんのこと、子の宗景、弟長景・時景らは自害・討ち死にしました。

 

【霜月騒動】御内人と御家人の戦い・平頼綱、安達泰盛を滅ぼす
得宗北条氏の被官(家来)を御内人(みうちにん)とよびます。その御内人の筆頭のことを内管領(ないかんれい)とよびます。 この内管領は役職名ではなくて、得宗家の執事という意味合い程度で、室町幕府の管領(かんれい)と異なります。室町幕府の管領も...

霜月騒動の余波と足利氏の危機

霜月騒動事態は、鎌倉を中心とした戦いで、一日で終結しています。しかし、その余波は全国に拡大していき、安達泰盛派と思われる御家人が大量に処罰されています。泰盛の娘婿金沢流北条顕時や妹婿の宇都宮景綱・長井時秀らが流罪または罷免されています。

 

霜月騒動では、足利一門も巻き込まれています。越前国守護だった吉良満氏の子貞氏が鎌倉での合戦で安達泰盛方として参戦し、平頼綱に敗れ自害。さらに斯波家氏の子宗家も討たれています。
足利義兼・義氏の代では北条得宗家に協力して幕府で重きをなした足利氏も、北条得宗家御内人によって誅されていったのです。
このように、足利氏が連座して滅ぼされることを恐れた足利家時(尊氏祖父)は、自害することによって足利氏の存続をはかり、「我命をつつめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」と悲憤の書を残したと言われています。

 

まだ15歳の貞時には平頼綱を統御する力はなく、「安達泰盛が討たれたあと、平頼綱の独裁が始まり、その政治は人々を恐怖に陥れた(実躬記)」とに記されるように、内管領平頼綱の専制政治が到来しました。

 

一般的に、足利氏は北条得宗家によって勢力を削がれたと言われていますが、北条得宗被官によって削がれたと言えるのかもしれません。北条氏は、家時以降の貞氏・高氏(尊氏)に対して先例通り厚く接しています。

強大化する頼綱の力

貞時は、1287年(弘安十年)1月5日従五位上に昇進し、1288年(正応元年)2月1日、初めて評定に出仕しています。1289年(正応二年)1月5日、正五位下、同6月25日従四位下に叙され、左馬権頭を辞しました。

貞時の朝廷での順調な出世は、平頼綱の主導によって行われたものでした。頼綱は、次男の飯沼資宗の朝廷官職上昇させることに力を注いだようです。もちろん、得宗の被官(家来)が得宗よりも上位の官職につくわけにはいかないので、得宗北条貞時の官位を上昇させてわけです。

頼綱が主導する幕府は持明院統の政治に介入し、1289年(正応二年)10月9日、将軍惟康親王を廃して、後深草天皇の皇子久明親王を新将軍に迎えています。

朝廷への介入のみならず、御家人への統制も強めていきます。1291年(正応四年)2月3日、鎮西談議所の調査のために派遣された尾藤内左衛門入道・小野沢実綱は御内人であり、8月20日に奉行人と引付の監督の監督を命じられたのも飯沼助宗・大瀬惟忠・長崎光綱・工藤杲禅・平宗綱らの御内人であることから、幕政は御内人によって動かされるようになってきたのでした。

貞時の鎮西政策

1293年(永仁元年)、23歳になった貞時は、大陸の元への防御態勢を強化するため、北条兼時と時家を異国打手大将軍として派遣し鎮西探題を設置します。鎮西談議所と鎮西探題の違いは軍事指揮権があるかないかで、さらに兼時に軍事指揮権を付与させています。初期の鎮西探題には確定判決権は与えられていませんでしたが、その下には訴訟審理機関ともいえる「引付」が設置されています。

 

【鎮西探題①】鎮西談議所と異国打手大将軍
東国政権として誕生した鎌倉幕府は、西国に勢力を伸ばすにつれて出先機関を作っていきます。幕府の拠点を西へ移すという発想はなかったようです。鎌倉幕府は、承久の乱を機として西国支配強化のために六波羅探題を設置しました。 今回は、蒙古襲来・元寇を...

兼時と時家は、1295年(永仁三年)4月に鎌倉に帰り、その後任として金沢流北条実政が就任します。金沢実政には確定判決権が与えられており、軍事指揮権と確定判決権を持った金沢実政を初代鎮西探題とする説に当サイトは従っています(兼時を初代鎮西探題とする説もあります)。

 

【鎮西探題②】鎮西探題の成立と初代探題金沢実政
元軍の再来襲に備えて、幕府は九州の御家人・非御家人を防備へ動員し続ける必要がありました。 そのような緊迫した中で、恩賞をめぐって九州の武士たちが鎌倉や六波羅にまで訴訟に来るというのは、持ち場を離れることになり幕府としては容認しがたいもので...

平禅門の乱

さて、少し時代を戻しましょう。

1293年(永仁元年)4月12日、鎌倉を大地震が襲いました。鎌倉市中が壊滅と大混乱に襲われている中、22日に貞時は討手を鎌倉経師谷の平頼綱邸に派遣し、頼綱の一族郎党90余人を討ち取ります。この事件は平禅門の乱と呼ばれています。この原因は「頼綱が余りにも驕りすぎていた(実躬記)」とも、「頼綱が貞時に謀反を起こそうとした(親玄僧正日記)」とも、「頼綱が二男を将軍にしようと企んだ(保暦間記)」とも言われています。

また、霜月騒動で御家人勢力が幕府から駆逐されていますが、御家人たちが御内人を排除するような動きも見いだされていません。平禅門の乱は、御家人が主導したわけでもなさそうです。

引付の改革

平禅門の乱の後、実権を握った貞時は、父時宗時代の政治体制の復帰を目指して幕政改革を進めていきます。まず引付の改革が行われ、1293年(永仁元年)6月、5番まで構成されていた引付は3番まで減らされ、10月には廃止となりました。そして、新たに執奏の職が置かれます。北条時村・北条公時・北条師時・北条顕時・北条宗宣・宇都宮景綱・長井宗秀が就任しました。北条一族で占められています。

 

足利氏が幕府要職を北条一族が占めていくことに反発したということはなかったようです。足利氏は義氏以外、幕府の要職につくことはなく、むしろ源氏の嫡流として将軍のそばに仕えています。

 

執奏の役割は、訴訟判決に必要な資料の提出と意見の具申で、一切の最終決定権は貞時が握っていました。

しかし、大量の訴訟を貞時一人が裁けるはずもなく、1295年(永仁三年)10月引付が復活しています。重要事項に関しては貞時の直断とされています。

この引付の復活の背景には御家人たちの反発が想像以上のものだったと考えられています。

永仁の徳政令

1297年(永仁五年)3月、質入売買の禁止や金銭貸借に関する訴訟の停止を定めた徳政令が発布されます。これは窮乏する御家人の保護政策であり、訴訟の迅速化を狙ったものでした。

しかし、結局御家人の不満をあおるだけの結果となり、1298年(永仁六年)には撤回してしまいます。

【永仁の徳政令】混乱を招いた北条貞時の政治
平頼綱の政治は、明らかに安達泰盛の政策を否定したものでした。 そして、今度は北条貞時が平頼綱の政策を否定します。 平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動以後の賞罰はすべて無効とされたのです。 また、頼綱によって失脚させられた御家人を幕府...

嘉元の乱と晩年

1301年(正安三年)4月12日、貞時は従四位上に叙されましたが、同8月22日に執権職を従兄弟で娘婿にあたる北条師時に譲り、9月23日に出家してしまいます。31歳のときでした。法名は崇暁で、のちに崇演と改めています。この年1月22日に北条時基に嫁いでいた娘に先立たれたことが原因とも言われています。

出家したとはいえ、寄合衆を自邸に集めて幕府の実権を掌握し続けていました。この結果、執権職はますます形骸化していくことになります。

1305年(嘉元三年)4月23日夜のこと、幕府の主導権をめぐって侍所頭人北条宗方(貞時の従兄弟)が、連署の北条時村を貞時の命と偽って滅ぼす事件が発生します。

「保暦間記」によれば、以前から執権の座を望んでいた北条宗方は、貞時の娘婿であることから執権になった師時を逆恨みし、これを亡き者にしようと考えたとしています。そして、連署時村と師時と、同じく貞時の娘婿である時村の孫煕時を滅ぼそうとし、まず長老として人望のあった時村を討ったと伝えています。

【嘉元の乱】北条氏系図

5月2日、貞時は時村のもとへ討手として向かった御家人・御内人12人の首を刎ねさせ、4日には宗方も誅殺します。

この事件は、得宗貞時を中心とする権力のもとで、その継承者を目指す者らの対立が表面化した事件と考えられています。

 

【嘉元の乱】北条貞時の専制政治!と思いきや北条氏の内紛というオチ。
貞時は、御家人の窮状を救うために永仁の徳政令を出しましたが、逆に社会の混乱を招きました。また、貞時は引付や越訴を廃止することができなかったばかりか、権力を得宗に一元化することもできませんでした。 →永仁の徳政令 得宗専制政治と言われ...

 

1308年(延慶元年)8月4日には将軍久明親王を京都に戻し、10日に久明親王の子守邦親王を将軍としました。

また幼い息子である北条高時の足場固めの布石として安達時顕・長崎円喜を登用し、高時を補佐させる体制を整えます。この構図は、貞時執権就任時に安達泰盛・平頼綱が補佐したのと同様で、しかも同じ一族なのです。

しかし、幕府の内外に多くの問題を抱える中、貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり御内人の平政連から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されています。

このように、晩年の貞時政権下では世代交代と得宗の弱体化が進行し、これが幕府解体へとつながっていくのです。

1311年(応長元年)10月26日、北条貞時はその一生を終えました。享年41歳。

 

 

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