足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政で武家の棟梁としての地位を築き、それをもって建武政権打倒後に室町幕府を開くという一連の行動は、足利氏が「武家の棟梁たる源氏の嫡流」という地位を獲得していたからと考えられています。
多分そうですよね。将軍になったのですから・・・。
しかし、この「源氏の嫡流」という地位は、足利尊氏の代によって急に成立したわけではなく、鎌倉時代を通して歴代の足利氏当主が築いてきた結果だったのです。
当サイトでは、足利氏の血統と足利義兼・義氏父子の活躍によって、足利氏が鎌倉幕府内で確固たる地位を築いていった話を紹介いたしました。この基礎があって後年の足利将軍につながるわけですが・・・。
足利義兼・義氏父子の時代に「源氏の嫡流」の地位を得ていたわけではありません。新田・武田・佐竹・平賀などの多くの源氏の一つでした。
さらに、鎌倉時代の足利氏が最盛期を迎えたといわれる義氏の時代にいたっては、実朝が暗殺され源氏将軍が滅んでも、つまり源氏がいなくても幕府は存在できたのであり、幕府にとって源氏は必要なかったと言えます。
そのような中で、「源氏の嫡流足利氏」という概念がどのように形成され尊氏へと引き継がれていったのか、義氏以降の足利氏当主から見ていきましょう。
泰氏出家事件
1251年(建長三年)12月、足利義氏の嫡子泰氏が下総国埴生荘で突然出家し、失脚する事件が起こりました。幕府は届け出のない出家を禁止していたことから、これを理由に下総国埴生荘は幕府に没収されます。
泰氏は、母は3代執権泰時の娘で、妻は4代執権経時・5代執権時頼の妹にあたり、執権・北条得宗家と非常に近い関係にありました。そんな泰氏がなぜ突然出家してしまったのでしょうか。
泰氏が出家してから間もない12月26日。在京の前将軍藤原(九条)頼経を再び将軍にしようとする一派が幕府転覆を画策したとして捕らえられました。北条時頼は、これを機に頼経の子で5代将軍頼嗣を廃し、北条政子・義時時代からの幕府の宿願である親王将軍の実現します。
泰氏は幕府に出仕して以来、前将軍藤原頼経に近侍してきました。1244年(寛元二年)に、4代執権北条経時によって藤原頼経が子の頼嗣に将軍職を譲ってからは、頼嗣に近侍しています。
このように、泰氏は幕府で将軍の傍にいたこと、母・妻が北条得宗家出身であることから、前将軍頼経を中心とする幕府転覆の動きや、それを機に北条氏が摂家将軍追放を企てようとする動きを察知し、政争に巻き込まれることを避けるために出家したと考えられるのです。
泰氏が前将軍とつるんで執権になろうとして失敗したという説もありますが、この説はいささか強引であるように思えてなりません。もし、そうだとしたら足利氏は泰氏の出家で済まなかったと考えられるのです。
自由出家をとがめられたことで、泰氏の政治生命は閉ざされますが、義氏は連座から逃れその後も幕府中枢でその存在感を発揮し続けました。義氏が連座を免れたのは、この事件に関与していなかったということもありますが、足利氏のもつ強大な軍事基盤を北条氏が配慮した可能性があります。
もちろん、この足利氏の軍事基盤は諸刃の剣で北条氏を脅かす要素になり得ました。ですから、足利氏は三浦氏と同様に粛清の対象になる可能性もあったのです
ところが実際には、泰氏の失脚により義氏の後継者となった孫の頼氏以降も、足利氏は北条氏から優遇され、鎌倉幕府の家格秩序の中で上位を維持しています。
頼氏も曽祖父義兼・祖父義氏・父泰氏同様に、母が北条氏出身だったことから、北条氏から優遇されるのは当然といえば当然です。
頼氏の後を継いだ家時の母は、足利氏被官上杉重房の娘です。ですから、家時自身は北条氏と血縁関係をもっていませんでした(家時の正室は北条氏庶家)。それにもかかわらず、家時も頼氏同様に北条氏に優遇されています。
もちろん、頼氏が早世し、家時が家督を継がざるを得なかったことを北条氏は理解していたと思いますが、家時が優遇された理由として、足利氏が幕府にとって必要不可欠な存在になっていたことが考えられるのです。
源氏将軍復活
足利家時の史料上の初見は1266年(文永三年)です。父頼氏は1262年(弘長2年)に没したといわれており(諸説あり)、足利家時の生年もはっきりしていないものの、1255年(慶長7年)説を採用すれば7歳で足利氏家督を相続したことになります。したがって、史料に登場したときは11歳だったことになります。
足利氏ほどの有力御家人の当主でありながら、頼氏と家時に関しては生年没年がはっきりしていないのは不思議ですね。
家時が史料に初お目見えする1266年(文永三年)は、惟康王(惟康親王)が鎌倉幕府第7代将軍に就任した年です(親王宣下を受けるのは後年になってからです)。
1270年(文永七年)、執権北条時宗は朝廷に対し将軍惟康王の源氏賜姓を奏請して、源惟康を実現させました。1219年(承久元年)に源実朝が暗殺されて以来、半世紀ぶりの「源氏将軍」の復活となったのです。
なぜ源氏将軍を復活させたのかというと、1268年(文永五年)の蒙古からの国書到来によって対外的緊張が高まり、蒙古襲来という未曽有の危機が迫ったことが大きな要因と考えられています。
北条時宗は、御家人の力を結集して蒙古に対処するために、惟康王を源惟康として源頼朝になぞらえ、惟康を頼朝の後継者たる正当な鎌倉幕府の将軍に位置づけようとしたのでした。
惟康は、1279年(弘安二年)に正二位に叙され、さらに時宗没後の1287年(弘安十年)には右近衛大将に補任されました。頼朝も正二位右近衛少将に任ぜられています。惟康の頼朝化は時宗政権の一貫した政策だったことが見えてきます。
1266年(文永三年)から1284年(弘安七年)6月までの家時の活動時期は、源惟康の源氏将軍復活の時期と重なります。家時の祖父泰氏が摂家将軍藤原頼嗣に近侍して以降、足利氏は将軍近臣の役割を担うようになっていました。
源頼朝に最も近い血統で、御家人の中で北条氏の次に位置する足利氏の家督を相続した家時が源氏将軍惟康を支えることは、源氏将軍を中心に幕府の結束を急ぐ時宗を大いに喜ばせたに違いありません。
1287年(弘安十年)6月、源惟康は右近衛大将に任官ましたが、3か月後に惟康は右大将を辞任します。さらに、その直後、惟康は親王宣下を受け惟康親王となります。源氏将軍をいただいた鎌倉幕府は、再び親王将軍をいただくことになったのです。この鎌倉殿の再親王化は、内管領平頼綱の主導によって進められました。
頼綱は、自身の息子飯沼資宗の官位官職昇進に力を注いでおり、そのためには主である将軍を高貴な存在し、主である得宗を昇進させる必要があったと言われています。
そもそも親王将軍は、北条義時・政子兄弟が後継に恵まれなかった実朝亡きあとに擁立を画策し、ひ孫の時頼が実現させた政策でもあります。頼綱は義時・政子時代に回帰しようとしたと考えることもできます。
足利家時の死
将軍源惟康を支えた足利家時は、生年も明らかでなければ、没年も明らかではありません。没年に関しては、1284年(弘安七年)7月26日~1286年(弘安九年)3月2日より前という説が濃厚のようです。しかも、その死は自害であり、理由は定かではないのです。
家時が自害したとされる前後の話です。
1284年(弘安七年)四月に執権北条時宗が死去し、その子貞時が14歳で後を継ぐと、政情が不安定になります。貞時の外祖父で御家人の代表格として勢力をふるっていた安達泰盛と、得宗被官たる御内人勢力を代表する内管領平頼綱との対立が激化したのです。
そして、1285年(弘安八年)11月に両者が衝突し、安達一族が滅ぼされるという、いわゆる「霜月騒動」がおこりました。このとき、安達一族のみならず、安達一族に与力した有力御家人や上野・武蔵の多数の御家人が滅ぼされ、その数は500人にのぼったと伝えられています。騒動は鎌倉のみならず全国に波及し、各地で安達派が滅ぼされました。
足利氏も無事ではなかったようです。「鎌倉年代記」によれば、上総三郎(足利満氏の子?)が非分に誅され、尾張三郎宗家(斯波家氏の子)も討たれました。足利氏がこの事件に連座し滅亡することを恐れた家時は、わが身を犠牲にすることによって家の存続をはかったのではないかと考えられています。
「我命をつつめ三代の中も天下をとらしめ給へ」としたためた「置き文」を残して自害して果てたと伝わります。この家時の置き文を今川了俊は父の範国と共に尊氏・直義兄弟の前で拝見したと「難太平記」に記しています。
源氏の嫡流
将軍は源氏なければならないという「源氏将軍観」は、鎌倉時代を通してあったわけではありません。摂関家出身の将軍である摂家将軍、天皇の皇子が将軍になる親王将軍の時代の方が長いのです。
鎌倉幕府が京都の朝廷と対等にわたりあえる政権であるためには、源氏よりも高貴な血統の将軍を頂戴する必要があったのです。蒙古襲来という特異な事件によって、源惟康という源氏将軍が一時的に復活したに過ぎないのです。
しかし、この源氏将軍の復活は、16年9か月余りという長期にわたりました。ですから、将軍は源氏でなければならないという「源氏将軍観」が当時の武士社会に広く波及したと言われています。
北条氏としては、将軍は「高貴な血筋」で擁立し続ける一方で、「源氏将軍観」にも対処しなければならなくなったのです。
そこで北条氏がとった政策は、源頼朝の血統に最も近い河内源氏で、北条氏と幾重の縁戚関係にあり、北条氏の次に高い家格をもつ足利氏を源氏の嫡流として公認することでした。
足利高義
公認したことを象徴的に示すものとして挙げられるのが、足利貞氏と金沢流北条顕時の娘の間に生まれた子の「高義」の名乗りです。
足利氏3代当主の義氏以来、足利氏当主の名は、北条氏嫡流たる得宗の名の一字と、足利氏の通字「氏」とを組み合わせて名乗っていました(家時は除く)。高義という名は得宗高時の「高」と「義」によって構成されています。
「義」は、河内源氏棟梁の通字(頼義・義家・義親・為義・義朝・義平)です。「高氏」ではなく「高義」と名づけた背景には、足利氏を源氏嫡流に位置づけることで、「源氏将軍観」の高まりを押さえようとしたと考えられるのです。
ちなみに、貞氏と上杉頼重の娘清子との間に生まれた子が、足利高氏を名乗ります。この高氏こそ、室町幕府初代将軍足利尊氏であることは有名すぎる話です。
北条氏と足利氏の新時代
源惟康改め、惟康親王以降も足利貞氏は将軍に近侍しつづけ、北条氏に対しても協力を惜しんでいません。1301年(正安三年)8月に北条貞時は出家を遂げますが、貞氏も出家に従っています。1323年(元亨三年)の貞時の十三回忌法要に際しては、230貫文という高額の費用を進上しています。これは、当時の幕府最高実力者で内管領長崎入道円喜の300貫文に継ぐ進上額だったのです。
貞氏は積極的に北条氏に協力することで、北条氏から源氏嫡流の公認を獲得し続け、武家社会における足利氏の権威上昇をはかったと考えられます。一方で、幕府においては親王将軍に仕えながら、得宗北条氏が指向する幕府体制を支える役割を果たしていたと考えられます。このことによって、貞氏は北条氏から優遇され、得宗家に次ぐ家格を維持できたのでした。
むすび
1336年(建武三年)2月、京都周辺での後醍醐天皇側との戦いに敗れた尊氏は、海路九州へと落ちのびました。その途中の「室津軍議」で尊氏は「将軍家」を自称し、諸国の武士もそれを支持しました。あるいは、1135年(建武二年)7月に勃発した中先代の乱を鎮圧した尊氏が下向先の鎌倉で「将軍」を自称したとの説もあります。
いずれにせよ、尊氏の自称将軍家も、自称将軍家を支持する武士も、その前提となる思想的な基盤・合意が形成されていなければ成立しないはずです。
その思想的基盤は、源惟康なる源氏将軍復活による源氏将軍観の醸成と、北条氏による足利氏の源氏嫡流化に求められるのです。
参考文献
細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史』日本史史料研究会。
田中大喜編『下野足利氏』戎光祥出版。
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