確かに、鎌倉時代・室町時代は武士の時代です。
鎌倉幕府・室町幕府の時代ですが、朝廷の動向を無視して政治を行ったわけではないのです。ゆっくりと公家から武家への時代へ移行していくイメージです。
急に突然、武士の世になったわけではありません。
ですので、中世は朝廷と幕府の両方を知る必要があると思います。
鎌倉・室町時代を語るときおそらく様々な天皇が出てまいります。
幕府は天皇を利用し、天皇も幕府を利用し、ときに協力し、ときに牽制しという具合で、ごちゃごちゃしております。
鎌倉幕府・室町幕府を少しでも理解するために、中世(平安時代~室町時代)の天皇家を少し理解しておきましょう。
治天の君(ちてんのきみ)
治天の君。
簡単に言うと、天皇家の家督を継ぎ、実質上の政治権力を保有した天皇または上皇です。
現代の日本人にとって、天皇は一番最高の位で、最高の権威を持ち、その上の実力者はいないと考えているはず。
しかし、中世(平安時代~室町時代)は少し違うようです。
平安時代にさかのぼって、藤原道長や頼通による摂関政治が盛んなころの話から。
この時代、特定のある官職を一つの家で相続することが当たり前になってきていました。
関白は〇〇家、大納言は〇〇家みたいな感じです。貴族の身分が固定化されてきました。
ということは、官職にくっついてくる「利権」もある家に固定化されていきます。
なので、その官職についた〇〇家の者は、その官職で得られた利益を〇〇一族に分配する権限や義務を持つようになります。
その者を「長者」といいます。
摂関家ならば、藤原道長や藤原頼通が長者にあたります。
そして、天皇家でも「長者はだれか??」という考えをするようになりました。
天皇家でこの「長者」の役割を担ったのが、治天の君といわれた、天皇または上皇なのです。
この「治天の君」は、平安時代後期の白河上皇(法皇)による院政によって本格的に始まったといわれています。
白河上皇の院政中は、堀河天皇、鳥羽天皇が在位していましたが、天皇としての絶対的な権力は発揮できず、白河上皇が発揮していました。
天皇在位中であっても「治天の君」に逆らうことはできないのです。
治天の君の座をめぐって、武力衝突まで発展した例に「保元の乱」があげられます。
治天の君だった鳥羽上皇が崩御したあと、次の「治天」を巡って崇徳上皇と後白河天皇が争い、摂関家と源平の親子対立を巻き込んだ争いとなりました。
鎌倉時代の治天の君
平清盛や源頼朝の最高のライバルであった後白河上皇のあと、治天の君になったのは、後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は、源実朝が暗殺され、源氏将軍が滅んだのを、鎌倉の弱体化とみて幕府打倒を試みるも大敗しました。
承久の乱です。
後鳥羽上皇は隠岐の島に配流されてしまいます。
その後に治天の君になったのは、後嵯峨上皇です。
後嵯峨上皇は鎌倉幕府と仲が良かったと言われています。また、白河院、鳥羽院、後白河院、後鳥羽院のような強い権限をもった治天の君ではありませんでした。
なぜなら、承久の乱以降、鎌倉幕府は朝廷をコントロールするようになっていたからです。
後嵯峨上皇は「今後は誰を治天の君にするか?」ということを幕府に相談するようにと遺言を残し、崩御されてしまいます。
後嵯峨院の鎌倉幕府への信頼度の高さがうかがい知ることができます。
ちなみに、崩御されたのは1272年のことで、元・高麗軍が日本に攻め寄せてきた「元寇」があった年で、この時期の鎌倉幕府は頼もしい存在だったのかもしれませんね。
さて、後嵯峨上皇の二人の息子が、治天の君を巡って対立します。
息子の後深草上皇と亀山天皇は、「そうであるならば、父の後嵯峨上皇の遺言どおり鎌倉幕府に決めてもらおう!」ということで、鎌倉幕府に「どっちが治天の君か?決めてくれ!」と裁断をあおぎ、激しく対立します。
後深草系の「持明院統」と亀山系の「大覚寺統」の始まりです。
鎌倉幕府が出した答えは…
「両統迭立(りょうとうてつりつ)」
「両統交代で天皇になってね」です。
この対立は、応仁の乱まで200年にわたり続きます。
南北朝時代は70年と言われていますが、それは一部にしかすぎません。
南北朝の統一は足利義満の時代をもって成し遂げられますが、持明院統と大覚寺統の天皇家の対立は実は続いていくのです。
歴史の教科書には載っていませんが・・・。
しかし、その対立も応仁の乱によって終了するのでした。
幕府も朝廷も「次の天皇は誰かということに関わっている余裕はなくなった」というのが実情のようです。
むすび
今日は、治天の君についてお話ししました。
治天の君に関しては、鎌倉・室町幕府は深く関わっていますし、当時の社会を理解する上でとても重要と感じたので記事にしました。
コメント