諸国平均安堵法と雑訴決断所~足利高氏の軍事的圧力

建武の新政
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1333年(元弘三年)6月5日、伯耆国から帰京した後醍醐天皇はさっそく親政を始めましたが、その政策は社会の混乱を招きます。

また、高氏と護良親王の対立が激しくなるなか、後醍醐天皇は高氏を政権から遠ざけます。人々の間で「高氏なし」と言われたのはこの頃でした。

高氏は政権での巻き返しをはかって、軍事的圧力を後醍醐天皇に加えていきます。

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後醍醐に対する高氏の軍事圧力

1333年(元弘三年)7月、京都はふたたび騒然としてきます。

高氏と護良親王の軍事衝突の緊張性が高まったのは6月のことでしたが、その時に高氏が諸国の旧幕府の地頭・御家人に発した軍勢催促の指令が効果をあらわしはじめたのです。

信濃の武士市河助房・経助兄弟は6月18日に、加賀の菅浪郷の地頭で菅生神社の神主の狩野頼広が同21日に入京したのをはじめとして、7月に入ると、北は奥州、南は肥後・薩摩など九州の武士まで続々入京して、六波羅の高氏の陣におもむきました。高氏の軍団は日ごとに増えていきす。

一般武士・旧幕府御家人の支持を集め、彼らの不安・不満の声の代弁者となりつつあった足利高氏でしたが、記録所・恩賞方という親政の政治機関の職員に任ぜられることもなく、遠ざけられていました。

高氏が京都に兵を集めていることは、後醍醐天皇からすれば高氏が怒っているように見えたはずです。

諸国の武士たちの集結は、護良親王との軍事的衝突に備えてのことでしたが、足利高氏はこれを利用して後醍醐天皇に圧力を加えます。

そうした情勢の中で発せられたのが、7月23日付の諸国平均安堵法です。

諸国平均安堵法

その内容は、朝敵の範囲を北条高時一族とその与党に限定すること、当知行安堵(事実的支配の確認)を中央で取り扱わず、各国の国司の所管とすることでした。

これは、旧領回復令と朝敵所領没収令の大幅な修正で、後醍醐天皇にすれば親政の一歩後退を意味していました。

旧領回復令 : 倒幕運動に関わったために、幕府に所領を没収された旧領主にその所領を返還させ、その後の土地の所有権の変更はその都度、後醍醐天皇自らの裁断が必要という法令。

朝敵所領没収令 : 鎌倉幕府側についた武士・貴族の所領を没収する法令。

 

それでも後醍醐は諸国平均安堵法の最後には、「ただし臨時の勅断においてはこの限りに非ず」という但し書きをつけることを忘れませんでした。

法と言えども天皇の意志を拘束することがあってはならないというのが、後醍醐の考える天皇親政の根本原則なのです。

同じころ、綸旨の絶対・万能を基礎とする天皇が全政務について直接裁断する仕組みにも手直しが加えられました。

親政の最初に設置された記録所・恩賞方は、後醍醐天皇の「お気に入り」の職員によって構成されていたことから、天皇の手足に過ぎない機関でしたが、それとは別に、独自の採決権をもつ雑訴決断所という裁判機関が設置されたのです。

 

 

足利高氏の後醍醐天皇に対する軍事的圧力が功を奏して、人々を混乱の渦におとしいれた諸政策の修正が行われました。

雑訴決断所

雑訴決断所は、諸国平均安堵法と同じ時期か、やや遅れて(遅くても9月上旬)設けられます。

これは、他人の所領や年貢を実力で略奪(押領)されたことの訴えや、所領の権利に関する紛争(相論)や所領の境界に関する紛争(堺相論)を管轄して、自ら判決を下す裁決機関のことです。鎌倉幕府では引付がその役を担っていました。

雑訴決断所には、一番(畿内・東海道担当)、二番(東山道・北陸道担当)、三番(山陰道・山陽道担当)、四番(南海道・西海道)の四局があり、一・二番は奇数日に、三・四番は偶数日に開廷されました。また、頭人(裁判長)、寄人(合議官)、奉行(審理官)で構成され、全構成員の約四分の一が旧幕府の引付職員で占められました。

親政当初、後醍醐は自身で全ての裁決を下そうとしていましたが、とても裁ききれるものではありませんでした。したがって、後醍醐天皇が彼から独立して紛争の裁決権をもつ機関の成立を認めて、彼の直接裁決の範囲を狭めたことは、親政が修正局面に入ったことを意味していました。

旧幕府御家人・文士たちの不満の代弁者・足利高氏の軍事的圧力を受けた後醍醐天皇は、諸国平均安堵法の発布や雑訴決断所を設置することで混乱をおさめようとしました。しかし、それは後醍醐天皇の求める親政の修正・後退を意味していました。

また、高氏の有力な家人である上杉憲房と高師直・師泰を奉行として雑訴決断所に送り込んでいます。足利高氏の親政政権内での巻き返しが始まったのです。

関東での軍事基盤を築く高氏

1333年(元弘三年)7月下旬、高氏一党に倒幕の恩賞が与えられました。

7月19日に岩松経家に飛騨の守護職と伊勢の笠間荘ほか9ヶ所の地頭職が与えられます。岩松氏は新田義貞の一族ですが、高氏の命令を受けて鎌倉攻めに参加した武士で、それ以来高氏党の有力者として活躍します。

つぎに、高氏に武蔵・上総の守護職と伊勢の柳御厨ほか29ヶ所の地頭職が与えられ、弟直義に相模の弦間郷ほか14ヶ所の地頭職が与えられました。

高氏が守護に任命された日付は明らかではありませんが、岩松経家と同時か、それ以前と考えられています。

高氏兄弟および岩松経家に与えられた地頭職は全て北条氏一族からの没収地で、特に高氏の所領は政治的・軍事的に重要な地域が多くありました。高氏がそれらの地域を選んだ結果と考えられています。

また守護職に関しては、上総国はもともと足利氏が代々守護に任命されていたところなので、引き続き領有を認められただけですが、武蔵国守護に関しては北条氏が鎌倉防衛のための要地として一世紀以上守護職をつとめてきました。

その武蔵国の守護職を獲得したことは北条氏と同様、高氏が手中におさめている鎌倉を防衛するためですが、北条氏にかわる関東の主は足利氏であるというイメージを築くことを意図したものでしょう。

北条氏滅亡後の鎌倉は、足利高氏が実質上の主となっていました。その鎌倉防衛のために武蔵守護に任命されたことから、高氏は親政政権内の巻き返しだけでなく、関東での軍事基盤の確立をはかりはじめました。
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