鎌倉幕府の最後の将軍は久明親王、最後の得宗は北条高時、最後の執権は赤橋守時。通常、執権は16代赤橋守時が最後とされています。
しかし、執権については赤橋守時ではなく、金沢貞将が最後ではないかという説があります。
どういうことか見てみましょう。
誕生について
金沢貞将は15代執権金沢貞顕の嫡子。貞将は「さだまさ」と呼ばれてきましたが、20世紀末に「さだゆき」であることが確認されたようで、貞将「さだまさ」と書いて「さだゆき」と呼びます。
母は未詳で、生年も未詳。
北条氏は将軍に次いで2位、御家人トップの立場にあるにも関わらず、生没年未詳という人が多いです。貞将は、父が15代執権金沢貞顕ですから、しっかり史料に残されそうな気もしますが・・・。
1333年(元弘三年)の鎌倉幕府滅亡したとき、父貞顕は56歳。貞将は1318年(文保二年)五番引付頭人に就任し、これ以前に評定衆・官途奉行になっています。父の年齢と自身の幕府役職就任時期から、貞将の没年齢は30代後半と推定されています。
六波羅探題就任
1324年(正中元年)11月16日、貞将は六波羅探題南方として5千騎を率いて上洛しました。9月19日に発覚した後醍醐天皇の第一次倒幕計画である「正中の変」に対応するためです。
北条氏が軍勢を率いて上洛したのは、戦乱で京都へ進軍した承久の乱での泰時・時房を除くと、源義経の謀叛に対する朝廷の責任を追及するために北条時政が上洛した1185年(文治元年)、源実朝暗殺後に四代将軍候補として後鳥羽上皇皇子の鎌倉下向を迫るために北条時房が上洛した1219年(承久元年)の2度ありますが、ともに軍勢は1千騎程度。
六波羅探題上洛では、貞将の父貞顕が南方探題として上洛したときが約1千騎ですから、貞将の軍勢はかつてない大軍だったことがわかります。100年前の承久の乱以来の倒幕計画に対する、幕府の衝撃の大きさをうかがい知ることができます。
鎌倉後期の幕府人事は先例・家格主義です。要するに北条氏に生まれれば、北条氏でも上位の家柄に生まれれば、幕府の要職につくことができたわけです。
しかし、貞将の場合は、正中の変という倒幕の危機に対応しなければならなかったことから、政治的・軍事的才能を幕府首脳から期待されて、六波羅探題の就任にいたったと考えられています。探題就任中に武蔵守に任じられました。
1330年(元徳二年)に鎌倉に戻り、執権・連署に次ぐ幕府第三位の役職である一番引付頭人に就任しました。武蔵守任官と一番引付頭人就任によって、貞将はやがて連署・執権へと進む資格を有していたことを示しています。
『太平記』によれば、貞将は「早く鎌倉に帰りたい」旨をたびたび幕府に希望していたようで、後醍醐天皇を中心とする朝廷や悪党の対応に苦悩していたことをうかがい知ることができます。
『太平記』の記述から推測される貞将の執権就任説
貞将が17代執権に就任したのかどうかは、『太平記』のエピソードにかかっています。
鎌倉郊外の山内での合戦に敗れ、郎等8百人を失い自らも7ヶ所の傷を負った貞将は、北条高時らが最期の地としてこもった北条氏代々の墓所東勝寺に向かいました。
東勝寺にたどり着いた貞将の姿を見て感激した高時は、すぐさま「両探題職」に任ずる御教書を作り貞将にあたえました。貞将は「北条氏の滅亡は今日を過ぎることはない」と思ったものの、「多年ノ望」が達成されたので「今は冥土での思い出にもなるだろう」と喜んで再び戦場に赴き、御教書の裏に「我が百年の命を棄てて、御主君の一日の恩に報いる」と大文字に記し、これを鎧の引合せ(鎧の胴の前と後ろを合わせた部分)に入れて、大軍の敵勢に突入して討死しました。『太平記』
ここでのキーワードは「両探題職」です。
鎌倉末期に作成された幕府の訴訟解説書『沙汰未練書』には、「探題」とは、六波羅探題北方・南方、執権・連署を指しています。
貞将は六波羅探題を経験済みなので、六波羅探題に再任されても、「多年ノ望」と思うわけがなく、「冥土での思い出」と喜ぶはずはないですね。
となると、執権か連署のどちらかに任じられたということになるのではないか?と推測されるのです。貞将は、武蔵守で一番引付頭人という幕府ナンバー3の地位にありました。1333年(元弘三年)5月22日の鎌倉幕府滅亡の日。執権赤橋守時はすでに討死していて、連署の北条茂時は存命。したがって、貞将は空席となった執権に任命されたと考えることができるのです。
もちろん、『太平記』だけの話なので真実かどうかはわかりませんが、しかし、最後の執権に就いた貞将は、この世に思いを残すことなく散ったと思いたいですね。
参考文献
秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館。
細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
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