鎌倉幕府が滅亡してまだ2ヶ月くらいの話をしています。
六波羅探題を滅ぼした足利尊氏はそのまま京都に駐留し、嫡男千寿王(のちの義詮)を鎌倉に置いて、京都だけでなく関東でも足場を固めていきます。
しかし、その足利尊氏をけん制する強敵がもう1人、正確には2人があらわれます。
北畠親房・顕家親子。
尊氏が武蔵守に任命された8月、北畠顕家は陸奥守に任命されました。今回は、足利尊氏の好敵手北畠父子についてお話ししましょう。
顕家陸奥守任官の裏事情
1333年(元弘三年)8月に北畠顕家は陸奥守に就任しました。表向きは顕家の父親房の功労に対する報償でしたが、京都と関東で勢力を拡大している足利尊氏をけん制するためでした。
保元から暦応まで、つまり源平合戦から尊氏の幕府設立までの歴史を書いた『保暦間記』には、「多くの東国の武士は、陸奥・出羽に所領を持っていて実力もある。東国武士と足利氏を切り放すために、北畠親房・顕家父子は、後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて奥州に下向した。この案を考えたのは護良親王である(意訳)」と、記されています。
尊氏は、鎌倉から新田義貞を追い出し、尊氏の嫡男千寿王(のちの義詮)を置いて、東国武士を引き入れ勢力を拡大をはかっていましたから、護良親王と北畠親房は、東国において手を打たないといけないと考えたのでしょう。
かつて、鎌倉の頼朝を背後から脅かした奥州藤原氏のように、尊氏を背後から脅かそうとしたのです。
護良親王と北畠親房
護良親王と北畠親房の関係ですが、護良親王の妻は北畠親房の娘でした。つまり、親房は護良親王の舅(しゅうと)であり、護良は親房の娘婿ということです。
この縁戚関係によって、2人は協力し合う仲になったと考えられますが、足利尊氏と東国武士の分断案は、護良と親房の縁戚関係だけで生み出されたものではありません。2人の政治的な思想がよく似ていたようです。
尊氏の人気が高まると、ライバルの護良親王の人気は相対的に低下しました。さらに、護良親王の政治思想は父後醍醐天皇と違っていたことから、後醍醐天皇から徐々に疎外されていきます。
護良親王は倒幕活動中に組織した畿内南部(大和・紀伊)の武士団を手離さないばかりか、諸国の武士によびかけて、自らの武士団を強化しようとしていました。
護良親王が自分の武士団を強化する理由は、足利尊氏に対抗するためであり、彼が征夷大将軍に就任したのもそのためでした。
足利尊氏と護良親王の最初の確執
しかし、後醍醐天皇は個人が巨大な武士団を束ねること、つまり武士の棟梁の存在は認めません。父後醍醐天皇の存在を脅かす足利尊氏を退治するという理由であっても認めないのです。
後醍醐天皇の構想は、武士は天皇によって直接支配されなければならず、武士を組織する具体的な方法は国司制度だったのです。地頭や御家人が国司の指揮下に入ったのはそのためでした。
地頭・御家人が守護から国司の支配下に入った記事
護良親王の舅である北畠親房は、武士の棟梁を認める立場にあります(『神皇正統記』『職原抄』)。天皇の存在を軽んじる幕府は否定しますが、天皇に忠実な将軍は否定していません。護良親王のような武士の棟梁は歓迎なのです。
また、彼は後醍醐天皇の直接支配が生み出した様々な制度の破壊や社会混乱を批判しています。後醍醐天皇の政治には否定的です。
そんなわけで、北畠親房も後醍醐天皇との思想的対立が原因で親政から疎外されています。護良と親房は同じ境遇だったのです。
義良親王
護良・親房が足利尊氏けん制のために担いだ義良親王の母は阿野廉子です。
かつて、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕に失敗し隠岐に配流になったとき、彼は数多い后妃の中で唯一、阿野廉子を隠岐の配所に連れていきました。阿野廉子は後醍醐天皇の寵愛をほしいままにしていました。
義良親王はそんな阿野廉子の生んだ皇子で、当時わずか6歳でした。
京都の護良と奥州の義良によって、彼らの間にある畿内と関東、奥州の足利勢力をけん制するのです。
そして、奥羽の武士や関東の武士たちを、義良皇子を奉じる東北政権に服属させることができれば、鎌倉をおさえることが可能になります。
また、畿内で尊氏の人気に押され、評判低下の著しい護良自身の兵力を東北から補給できることになります。
本来、後醍醐天皇の政治方針からすれば、東北に地方政権ができることは許されないはずです。彼の目指す政治は天皇による中央集権だからです。それでは、なぜ東北政権を認めたのでしょうか。
成良親王
足利氏の勢力を京都と奥州から挟み込もうとする護良・親房の計画に、尊氏は手をこまねいたわけではありません。
義良親王を奉ずる親房・顕家父子が陸奥の国府多賀に向かって都を発ったのは10月12日。それからわずか半月後、尊氏の弟直義の相模守任命が発表されます。ついで翌12月半ば、直義は成良親王(なりよし)を奉じて鎌倉に下り、関東10カ国を管轄する関東政権をつくることになりました。成良親王の母は阿野廉子で、奥州に下向した義良親王の兄にあたります。
この関東政権も、後醍醐天皇からすれば許されないはずです。しかし、後醍醐天皇は東北政権の樹立を認めています。おそらく、尊氏は「義良親王を奉じて奥州統治が認められるならば、我々足利も成良親王を奉じて関東を統治することも許されるはずだ」という論理をもって後醍醐天皇に関東政権の許可を要求したのでしょう。
陸奥将軍府と鎌倉将軍府
東国において、「義良親王-陸奥守北畠顕家」の東北政権と「成良親王-相模守足利直義」の関東政権が誕生することになりました。鎌倉幕府の親王将軍と北条氏の関係を用いれば、東北政権も関東政権も幕府のようなものと言えるでしょう。
ちなみに、この東北政権は陸奥将軍府、関東政権は鎌倉将軍府とよばれます。ミニ幕府ですね。
陸奥将軍府では北畠顕家は国司とよばれ、発給文書に王朝系様式の国宣を用いました。鎌倉将軍府では足利直義は執権とよばれて、幕府系様式の御教書を用います。
直義が執権と呼ばれる時点で鎌倉将軍府はもはや「新・鎌倉幕府」ですが、陸奥将軍府も旧幕府の職制を設け、旧幕府の職員を登用していることから、2つの政権は幕府に近いものだったのです。
ただし、陸奥将軍府はもう少し事情が複雑で、例えば最高合議体を構成する式評定衆八人のうち、奥州の有力な地頭の結城宗広・親朝父子、伊達行朝といった武士を登用しています。結城氏は白河荘の地頭、伊達氏は信夫荘の地頭です。
この伊達氏は、あの「独眼竜政宗」のご先祖です。結城氏も伊達氏も比較的早く倒幕に踏み切った功によって重用されたのですが、裏返せば、このような現地の有力地頭層の支持が無ければ、奥州の経営ができなかったということになります。北畠親房・顕家父子は慣れぬ奥州で苦労したことでしょう。
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