鎌倉時代も坊主丸儲け?~商工業の発達と高利貸しの出現

鎌倉時代
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鎌倉時代は、武家政権の誕生や鎌倉新仏教の勃興、貨幣経済の発達などによって社会が大きく変化した時代なのですが、商工業の発達も見逃すことはできません。

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商工業の発達

貨幣経済と商工業の発達は、農業を主体とする御家人たちに大きな影響を与えました。

 

鎌倉時代は貨幣経済が発展した時代。なぜ銭が流通したのか解説。
鎌倉時代は急速に銭(貨幣・お金)が流通するようなり、いわゆる貨幣経済が発達します。 鎌倉時代は、公家中心社会から武家中心社会へと大きく転換する時代ですが、経済も大きく転換するダイナミックな時代なのです。現代日本に続く貨幣経済の幕開けの時代...

 

お金があると、ついつい人はぜいたくしてしまいますが、御家人たちもご多分に漏れず分不相応なぜいたくをしていた者が多くいたようです。

 

 

商人が遠方から珍しいものをもってくると、高い銭を払ってそれを買い求めたり、京都・鎌倉や西国の新しい所領へ赴いた際にぜいたくを覚え、商人から高いものを買わされることもあったようです。

兎にも角にも、鎌倉時代に商工業は飛躍的に発展し、モノの売買が盛んになっていきました。

この商工業の発達は、もともとは農民が度重なる飢きんに生き残るため、稲作以外に、畑作や特産品の生産を発達させたのがきっかけといえば、きっかけです。

それらの品々が、荘園制度を基盤とする流通網に乗って京都や奈良、他の地域に運ばれていったのです。

これらの流通は、貨幣の交換によって取引されるようになっていましたから、しだいに農民に貨幣が行き届きはじめます。

農民たちは銭をたくわえようと努力するようになります。いざというとき、銭が頼りになるようになってきたのです。

御家人は、地頭・公文・名主などという荘園の管理者として農民の上に立つ存在でした。

しかし、徐々に貨幣経済が農村に浸透してくると、自給自足を前提として結ばれていた「領主-農民関係」に変化が生じます。

たとえば、力役や雑物公事といった労役が銭勘定に代わってきます。銭さえ出せば、労役は免除のようなこともしばしばです。

領主は、いろんな名目で農民が蓄えた銭を徴収しようとしますし、ひどい場合には、無理やり罪を被せて罰金として銭を徴収する例もありました。

自給自足の頃のような情緒的な結びつきではなく、ドライな結びつきに変わっていくわけです。カネは恐ろしい。

また、遠隔地へおくる年貢や公事を近くの市場で銭に替えて送るようになりました。

市場が定期的に開かれるようになるのもこの時代の特徴です。四日市・五日市・八日市などはその名残とされています。

本貫地と呼ばれる本拠地以外の遠隔地に所領をもつ御家人は、その所領に代官を置いていました。

農民が銭を蓄え、年貢や公事を銭に替えて運ばせるようになると、銭勘定に長けた代官を任命し、年貢などの徴収を負わせるようになります。

山僧

銭勘定に長けた代官としてしばしば任命されたのが「山僧(さんそう)」でした。山僧とは、「山門」と呼ばれた比叡山延暦寺の僧侶のことです。

彼らは寺社領荘園の雑掌(荘園領主の代官)として、理財(財産)に関わる機会が多かっただけでなく、各地の末寺・末社の組織を通じて祠堂銭(祠堂(しどう)の修理費の名目で死者の冥福を祈るために寄進する銭)を多く集めていました。

彼らは、祠堂銭を上納するのではなく、高利で貸し付けて暴利を貪っていました。

つまり、集めたお布施を元手に高利で貸し出して、莫大な利息を儲けていたということです。

さらに、神仏の銭ということで、踏み倒せば仏罰が下ると脅していたようで、回収率はよかったといわれています。

このように山僧=高利貸しというのが実態でした。

延暦寺の名誉のために言うと、比叡山延暦寺の僧すべてが高利貸しを営んでいたわけではありません。

真面目に修行を積む僧侶が多くいるなか、金に目のくらんだ僧侶も多くいたということです。

また、僧が高利貸しを営むのは延暦寺だけでなく、他の寺院も行っており、神社では初穂料を集めて高利貸しを行っていました。

借上

高利貸業を専業でおこなう者もあらわれます。借上(かしあげ)と呼ばれました。

南北朝時代に作られたとみられる『庭訓往来』という書物に、「湊々借上」とあることから、物資の運輸でにぎわう港湾などに、問丸(倉庫・物流業者)などとともに借上がいたものと考えられています。

借上は荘園制経済の流通網の中から生まれてきたのです。

山僧・借上を雇う御家人

御家人たちは武芸に秀でていましたが、金銭感覚に乏しい者も多く、その能力を補うために山僧・借上といった金融業者を雇っていました。

銭勘定に長け、彼ら自身が巨万の富もっていましたから、御家人にとって何かと便利だったのでしょう。

ところが、かえって地頭や御家人たちは、この高利貸しの代官に次々に所領を奪われてしまうのです。

なぜ、どのようにして所領が奪われたのか、はっきりした史料は残されていないことからわかりません。

ただし、幕府が度々発令する法令から御家人の様子をうかがうことは可能です。

1239年(延応元年)9月に幕府は「諸国の地頭たちは、山僧ならびに商人・借上の者をもって補する(任命する)ことを禁止する」法令を出しています。3代執権北条泰時の時代です。

そして、翌年5月に、

「たとえ私領であっても(御恩の地でなくても)、凡下・借上・非御家人に売却してはならない。売却すればその土地を没収する。また山僧を地頭代官にすることを禁止する」という法令を出します。

その後、1267年(文永四年)に御家人の所領の質入・売買を禁止し、1284年(弘安七年)には九州の神社領および御家人の名主職を無償でもとの所有者に返還することとします。

幕府は再三にわたって、御家人の所領売買に関する禁令を出しますが、結局のところ効果は現れませんでした。

山僧や借上との縁を切ることができないどころか、所領を奪われ続けた御家人の様子がわかってきます。

鎌倉時代は、発達した貨幣経済や商工業の発達によって社会は大きく変動し、新しい政治体制だったはずの武家政権そのものを旧態化してしまったと言えるでしょう。

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