学校の日本史の時間では、「鎌倉幕府の成立はいつか?」と問われれば、「イイクニの1192年、イイハコの1185年のどちらも覚えておきましょう」と教わります。一昔前までは1192年だけだったのですが、現在は1185年説が採用されています。
それはそれで、先生の言う通りに覚えておくとして、鎌倉幕府の成立には1192年・1185年以外にも様々な説があります。
今回は、鎌倉幕府の成立に関する様々な説の主張をご紹介しましょう。
くれぐれも、先生の言う通りに覚えてくださいね。
様々な説が生まれた背景
そもそも、鎌倉幕府成立に色んな説が登場するのは、「鎌倉幕府設立宣言」のようなものがないからです。しかも、「鎌倉幕府」という言葉は江戸時代以降の歴史家が名づけ、作り出した歴史上の概念です。当時は「関東」や「武家」と呼ばれていました。
頼朝が「我々の武家政権を鎌倉幕府と呼ぶ。そして今日がその成立日だ!」と言っていれば、このような説の乱立はなかったのかもしれません。
設立宣言のようなものがないので、後世の歴史家は「幕府の成立はいつか?」という解を得ようとし、そのためには「幕府とは何か?」と考えなければなりませんでした。
歴史家がそれぞれの考えをもとに、鎌倉幕府の成立は19〇〇年だ!と主張した結果、様々な説が生まれたのです。その努力に敬意を表しましょう。
鎌倉幕府の設立に関する諸説は、以下の通りです。
- 1192年(建久三年)7月…頼朝、征夷大将軍任官
- 1190年(建久元年)11月…頼朝、右近衛大将任官
- 1184年(元暦元年)10月…公文所・問注所設置
- 1180年(治承四年)10月~12月…頼朝、鎌倉入り
- 1185年(文治元年)11月…守護・地頭の設置
- 1183年(寿永二年)10月…十月宣旨の獲得
それでは、各々の説を見ていきましょう。
様々な説の検討
1192年(建久三年)7月説
「1192年(建久三年)7月説」は、頼朝が征夷大将軍に任命されたときをもって幕府の成立と考える説です。
「イイクニ」で一番知名度の高い説です。
征夷大将軍になったから幕府を開いたと、かつては習いました。
中国では昔から「出征した将軍の陣地」のことを「幕府」とよんできました。ですから、征夷大将軍は将軍なので、幕府を開いたのは1192年と言うことができる説です。語源的には正しい主張です。
しかし、頼朝は征夷大将軍を3年で辞任します。それでは、頼朝が将軍を辞任した瞬間から幕府はなくなったのでしょうか?
頼朝以降の将軍といわれた人たちも、常に征夷大将軍の地位にいたわけではありません。地位にいない間は、幕府は存在しなかったのでしょうか?
そうではないですよね。
1190年(建久元年)11月説
「1190年(建久元年)11月説」は、源頼朝が右近衛大将に就任した年を幕府成立とする説です。これも1192年説と同じ語源に基づいて主張されました。
当時の日本で「幕府」という中国風の名で呼ばれていたのは、「近衛府」という朝廷の役所でした。「近衛府=幕府」の長官は「近衛大将」ですから、頼朝が右近衛大将に任命された1190年を幕府成立と主張します。
語源的には正しいのかもしれませんが、頼朝は1年で右近衛大将を辞任していて、頼朝の後の鎌倉将軍で右近衛大将に任命されたのは惟康親王、源実朝が左近衛大将に任命されたくらいです。
したがって、近衛大将に任官していない将軍の時は鎌倉幕府はなかったのか?という話になってしまいます。
鎌倉幕府の用語はなかったにせよ、近衛大将がいなくても「関東」や「武家」と呼ばれた政権は存在していました。
1184年(元暦元年)10月説
1184年(元暦元年)10月説は、1192年・1190年説のように官職によって考えるのではなく、幕府機関の成立に注目する説です。
政務・財務をつかさどる公文所(のちの政所)と、裁判事務を行う問注所が発足した1184年が幕府設立の区切りと考えています。
官職名をもとに幕府設立を考える説よりも説得力がありそうです。
しかし、この説もすぐに疑問が生じました。
問注所ができるまで、頼朝は裁判をやっていなかったのか?公文所が新設されるまで頼朝は政治を行っていなかったのか?という疑問です。
当然、頼朝は裁判も政治も行っていました。
さらに、公文所や問注所と並ぶ重要機関の「侍所」は、1180年(治承四年)に設置されています。
公文所・問注所の設立を重視するのなら、侍所の設置も検討する必要があるのではないのか??
となって、次の1180年説が登場するのは当然の成行なわけです。
1180年(治承四年)10月~12月説
1180年(治承四年)10月~12月は、南関東に頼朝勢力が確固たる基盤を築いた時期とされています。10月6日に頼朝は房総半島・武蔵の武士を従えて鎌倉に入り、11月には御家人を統率する「侍所」が設置されます。
現在、私たちが用いる「鎌倉幕府」は、「鎌倉殿」をリーダーとする軍事政権を指す言葉ですが、鎌倉時代後期の武士たちはその「鎌倉殿」の始まりを治承四年(1180年)からと考えていたようです。
12月12日に頼朝の新邸が落成し、引き移りの儀式が行われたときのことを、『吾妻鏡』は「これより以降、東国みなその道あるを見、推して鎌倉の主となす」と記しており、幕府の人々は12月12日を鎌倉殿誕生と考えていたのです。
しかし、この説にも問題があるのです。
1280年10月~12月説は、鎌倉幕府の実質的支配の成立ばかりが強調されて、支配の広さに着目していないことが問題とされています。
「当時の人の多くがそう思っていたのなら、そうすべきでしょ?」と思ったりするのですが、確かに1180年の頼朝は南関東を支配しただけの軍事勢力です。
もし、江戸幕府が「徳川家康が駿河・遠江・三河を支配しているときに成立していた」「関東移封をもって成立した」と言われると、「???」となりますよね。
というわけで、「全国的」という広さの概念が重要になってきたのでした。
1185年(文治元年)11月説
1185年(文治元年)11月説は、頼朝が後白河法皇に「全国に守護・地頭設置の権限を認めさせた」ということを重視している説です。
全国に守護・地頭設置が承認されたことによって、頼朝は南関東の支配者から、日本全国の軍事警察面の総責任者としての地位を認められたと考えられました。
多くの学者がこの説を支持したことによって、教科書も1185年を鎌倉幕府の成立としたわけです。
ところが、鎌倉幕府成立を1192年から1185年に変更した頃には、学者たちの間では1185年にも問題があることが議論されていたのです。
頼朝に認められた「守護・地頭設置の権限」は、日本全国という形はとっていますが、すでに「東国」では1185年以前にこの権限を行使していて、1185年は「西国」が対象だったことが明らかになってきたのです。
1183年(寿永二年)10月説
1185年以前に、頼朝が東国に「守護・地頭」を設置していたということですが、それは「寿永二年十月宣旨」によって認められていたのでした。
1183年(寿永二年)10月、頼朝は軍事行動で支配下に置いた東国の荘園・国衙領の年貢を、責任をもって京都に納める代わりに、東国の荘園・国衙領の支配権を朝廷に認めさせていたのです。
したがって、1185年の「守護・地頭の設置」は西国が対象だったことになりますし、それは1183年の「寿永二年十月宣旨」の延長にすぎないことになります。
寿永二年十月宣旨をもって、頼朝は全国政権への足掛かりを築いたといえることから、1183年を鎌倉幕府の成立と見なすという説が主張されたのです。
最後に
色んな説をご紹介しましたが、1180年(治承四年)に産声を上げた鎌倉幕府は、1183年(寿永二年)に朝廷から東国支配を認められ、その支配を行うために1184年(元暦元年)に公文所・問注所を設置して機能整備をはかりました。
1185年(文治元年)には西国の支配が認められ、全国的に見て「エラくなった頼朝」はそれに相応しい官位を1190年(建久元年)と1192年(建久三年)に与えられたのでした。
ということでして、どの説も誤っているということはないので、とりあえずは教科書通りに1185年説を暗記しておきましょう。
ちなみに、私は1180年説が好きです。
参考文献
石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。
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