箱根・竹之下の戦いで、新田義貞を撃破した尊氏は、そのまま京都に向けて進撃を開始しました。
後醍醐天皇は、尊氏を挟み撃ちをするために奥州の北畠顕家に尊氏追討を命じました。顕家は1335年(建武二年)12月22日に奥州を出発。
12月30日、尊氏軍の進撃を阻止するために、比叡山の阿闍梨宥覚(ゆうかく)ら僧兵1千余人が伊岐代城(滋賀県草津市)に立てこもりましたが、高師直が一夜で攻め落とします。
京都攻略戦
尊氏は京都攻撃のための布陣を敷きます。
瀬田(滋賀県大津市)は足利直義・高師泰、淀(京都府京都市)は畠山高国、芋洗(一口、京都府久我山町)は吉見三河守。そして、宇治(京都府宇治氏)は尊氏という布陣。
後醍醐方の大将は、瀬田が千種忠顕・結城親光・名和長年、宇治は新田義貞で、尊氏と直接対決となりました。
宇治からの攻撃は、かつて承久の乱のとき、尊氏の先祖で関東宿老と呼ばれた足利義氏が活躍した場所です。
翌1336年(建武三年)1月3日、ついに戦いが始まりました。
義貞は宇治橋の橋板をはずし、櫓・掻楯(かいたて)を立てて防御を構えます。
宇治の攻防戦は激しく、尊氏もなかなか防衛線を突破できずにいました。
そこへ、細川定禅や赤松円心らの西国の援軍が京都の西にある山崎に到着します。
かつて、足利尊氏が六波羅探題を攻撃するときに、赤松円心はこの山崎から攻撃をしかけ、尊氏軍を支援していました。
1月9日、細川・赤松軍から「明日10日正午前に、山崎から敵勢を攻撃して狼煙をあげます。それを合図に御合戦してください」(『梅松論』)との知らせが入ります。
1月10日、細川・赤松軍は約束通り山崎を破り、久我・鳥羽に攻め入って火を上げました。それを知った義貞軍は撤退し、尊氏は追撃します。
後醍醐方は、東・南・西からの同時攻撃受けることになりました。守りにくく攻めやすいのが京都の特徴です。後醍醐方は総崩れになりました。
京都の人々はあわてふためき、略奪を恐れて財宝などをもって逃げ惑います。
後醍醐天皇による京都の治世は2年半で終わりを告げたのです。
里内裏として使われていた閑院殿も焼失し、その日の夜、後醍醐天皇は比叡山に移ります。
尊氏入京
翌11日、尊氏は京都に入り、洞院公賢邸に入りました。この日から、公賢と尊氏は密接な関係を持つ公家となります。
尊氏のもとに、降参した者が多く参上し、名前を記す暇がないほどだったそうです。
『太平記』によれば、尊氏は持明院統の誰かを皇位につけたうえで、武家が政治を行うことを構想していましたが、みな比叡山に連れていかれたので悩んでいたといいます。
もしそうならば、後の持明院統(北朝)擁立の構想は、この京都占領期に生まれたものと言えます。
京都防衛戦
京都は守りにくく攻めやすい地形と言われていますが、それは尊氏の場合も同じです。
1月13日、陸奥から義良親王と北畠顕家が率いる大軍が比叡山東の坂本(滋賀県大津市)に到着し、さらに、比叡山の僧兵らが義良・北畠軍に加わりました。
それに対して、足利軍には三井寺(みいでら)の僧兵が味方します。
比叡山延暦寺も三井寺も天台宗の本山です。比叡山延暦寺は山門派、三井寺は寺門派と呼ばれて長年抗争を繰り広げてきました。
戦端は三井寺で開かれます。三井寺の援軍として細川勢が派遣されましたが敗北。
新田義貞・北畠顕家連合軍は東から京都に入り、鴨川の東に布陣。
これに対して、足利軍は鴨川西の二条河原に陣を敷きます。
1月16日、ついに鴨川をはさんで両軍主力が激突しました。「人馬の肉むら山のごとし、河には紅を流し、血を以て楯をうかべし戦」(『梅松論』)とされる壮絶な戦いでした。
京都での戦いは一進一退となり、消耗戦かつ掠奪戦の様相を呈してきました。
1月30日、糺河原(ただすがわら)の合戦で尊氏は惨敗。六波羅攻めの挙兵の地である丹波篠村(京都府亀岡市)を目指して落ちていきます。
糺河原は下鴨神社の南側にある糺の森辺りことです。
尊氏の布石
尊氏は、篠村から三草山(兵庫県加東市)を通って、兵庫島(兵庫県神戸市)に陣を敷きます。
赤松円心から、尊氏・直義を守りやすい摩耶城(兵庫県神戸市)に移すという案が出されましたが、「まだ諸国の帰趨は定まっていない。もし大将が城に籠もれば味方は利を失ってしまう」という意見が出され、尊氏はそれを受け入れたため、兵庫に布陣することになりました。
この兵庫に向かう際に、尊氏は二つの重要の指令を出しています。
持明院統擁立の画策
第一は、持明院統の担ぎ出しです。赤松円心によって提案されました。
今度の京都の合戦に味方が負けたのは尊氏が朝敵だったからで、持明院統の院宣を賜って、「天下ヲ君ノ御争ニ成テ(天下を天皇と天皇の争いにして)」(『太平記』)合戦にすべきとして、持明院統に近い日野資明に協力を要請する使者を派遣しています。
合戦の正統性を得るために、鎌倉後期から続く皇室の分裂を利用しようとしたのです。
尊氏は、合戦における正当性や大義名分の必要性を知り尽くしていたのです。
元弘没収地返付令
もう一つは、元弘没収地返付令です。
北条氏与党に対する所領没収令によって没収された所領を、返付するという法令です。
後醍醐政権の土地政策を否定し、鎌倉幕府の秩序に戻そうとする法令です。これは一種の徳政令ということができます。
尊氏はこの徳政令によって、味方の軍勢を増やそうとしたのです。
所領を失った多くの武士たちが、尊氏の花押を求めて尊氏のもとに集まってきました。
これは着到(軍勢催促に応じて着陣すること)と同じことを意味しています。
この2つの重要な指令は、のちの尊氏の勝利を導くことになります。
九州落ち
尊氏は、摂津打出浜(兵庫県芦屋市)・豊島河原(大阪府池田市)で楠木正成・新田義貞連合軍と戦いましたが敗れました。
2月12日に兵庫から船に乗り西へ向かい、翌13日に播磨室津(兵庫県たつの市)に停泊し、ここで「室津軍議」と言われる、室町時代の守護制度の基礎となった西国防備と支配の基本方針を決定します。
その後、備後鞆(広島県福山市)に着いたとき、日野家出身の三宝院賢俊が勅使として尊氏のもとに赴き、光厳上皇から「後醍醐天皇追討」の院宣が下された旨を伝えたのでした。
尊氏は「もう朝敵ではない」と宣言し、錦御旗を掲げることを国々の大将に命じました。持明院統擁立構想は、ついに現実のものとなったのです。
参考文献
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
コメント