京都・兵庫で後醍醐方に敗れた足利尊氏は、持明院統の担ぎ出し裏工作や一種の徳政令を出して味方の兵を募るなど、次の一手を打ちながら九州へ退いていきます。
尊氏九州上陸
1336年(建武三年)2月29日、尊氏軍が筑前芦屋ノ津(福岡県芦屋町)に到着すると、尊氏離反に応じた少弐貞経が、大宰府近くの有智山(福岡県太宰府市)で自害したという知らせが入ります。
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肥後国から菊池武時の子武敏が後醍醐方として大宰府を攻撃し、貞経は敗北したのでした。
菊池武時は、少弐貞経・大友貞宗の裏切りで、鎮西探題攻撃に失敗し討たれた経緯があります。菊池氏と少弐氏は因縁の仲だったのです。
九州での戦いはこうして始まりました。
尊氏は、宗像(福岡県宗像市)にある宗像大宮司の邸に陣を敷きます。
菊池軍は、大宰府から博多へ進出。
尊氏は西に進出し、香椎宮に本陣を置いて多々良浜(福岡県福岡市)を望み、多々良川の手前に高・大友・宇都宮・千葉・島津の軍勢が布陣。
少弐頼尚は別動隊としてその脇に布陣しました。
この戦いこそ「箱根・竹之下の戦い」同様、尊氏の生涯にとって最も重要な合戦となる「多々良浜の戦い」です。
尊氏のパフォーマンス
尊氏が宗像大社や香椎宮といった神社に布陣したのには意味がありました。
九州の大社を陣にすることにより、尊氏自身が神に守られているという正当性を演出したのです。当然願文を捧げるなどのパフォーマンスも行われていたと考えるべきですし、尊氏は六波羅攻めの前では篠村八幡宮へ願文を奉じています。
尊氏が信心深いというのもあったでしょうが、鎌倉時代や室町時代は武士が戦っていると同時に、神々も戦っていると考えられていたのです。
したがって、神々が自軍に味方しているというパフォーマンスは士気を挙げるのに非常に効果的だったと考えられます。
『梅松論』には、香椎宮における次のようなエピソードをのせています。
尊氏軍が出陣のために香椎宮の前を過ぎるときに、神人らが杉の枝を折って持ってきて、「敵は皆、笹の葉を笠印につけています。これは御味方の笠印です」と言って、尊氏・直義をはじめ、軍勢の笹印として付け、奇瑞はまことにめでたく見えた。
新羅征伐の昔、神功皇后が椎の木に手を触れたので香椎宮と呼ばれている。そこで椎の木を御神体として、杉の木を御宝としている。
また、浄衣を着た老翁が直接将軍の鎧の袖に杉の葉を挿したので、尊氏は白い御刀を遣わした。その後、(老翁について)尋ねたが神人らはまったく知らないというので、「神の御加護で化人を遣わされたのか」と、いよいよ頼もしく思い、軍勢はますます奮い立った。
かなり手の込んだ演出ですが、このくらいの手の込んだ演出をしなければならない尊氏は、かなり追い込まれていたということもできます。
多々良浜の戦い
尊氏・直義兄弟
『梅松論』によれば、尊氏方は先陣の高・大友・宇都宮・千葉・島津が合わせて300騎、少弐軍が500騎、尊氏・直義本隊と合わせても1千騎にも満たず、敵は6万騎におよぶと記されています。
また『太平記』では、尊氏軍の半数は馬にも乗らず、鎧もつけておらず、その数わずか300騎、敵は4~5万騎とされています。
いずれにしても、圧倒的な戦力差だったことがわかります。
しかし、少弐頼尚は菊池軍を冷静に分析し、足利軍の勝利を予想していました。
頼尚は、「敵は大勢ですが、みな本来は味方として参るはずの者どもです。菊池自身は300騎にも達しません。頼尚が御前で命を捨てて戦えば、敵は風の前の塵も同然です。急いで御旗をお進めください。」と述べました。
大軍といえどもその去就は定まっておらず、戦いの中でもし彼らが味方になれば、形成は一気逆転。
だからこそ、なんとしても正当性・大義名分が必要なのです。
尊氏は赤字の錦の直垂に、唐綾威(からあやおどし)の鎧、宗像大宮司が進上した黒粕毛の馬に乗り、「前九年の役」で源頼義が安部貞任を征伐したときにつけた7つの印を、できる限り武具につけていたといいます。
源氏嫡流を演出し、その正当性を表現した姿だったのです。
尊氏・直義も含めた総攻撃も提案されましたが、尊氏は「もし二人が向かって苦戦となれば、味方は頼りを失ってしまう。自分は本陣を守り、直義を向かわせる。直義が苦しくなれば入れ替わって出撃する」という作戦を示します。
人々は「他の者の及ばないところである。先の箱根・竹之下の戦いで足柄峠へ向かって勝利したのも将軍の武略によるところだ」と賞賛しました。
箱根・竹之下の戦いでみられらた、尊氏・直義の連携がこの戦いでも発揮されました。尊氏・直義は「二人一役」だったのです。
多々良浜の戦い
1336年(建武三年・延元元年)3月2日、両軍は衝突しました。
少弐軍の向かいに陣していた2万・3万にも見える敵勢が太刀を抜き鬨の声をあげてなだれのごとく攻め寄せてきました。
足利軍はうろたえることなく、徒士の兵が一斉に弓を射ます。そして、足利軍は菊池軍を目指して殺到します。ちょうどその時北風が吹き、砂塵が巻き上がりました。
風上に立つ足利軍は有利、風下の菊池方は不利の形成となります。
足利軍は博多の州浜まで追い詰めました。敵勢は総崩れになったところで菊池武敏が戻ってきて直義めがけて殺到しました。
直義はたじろぐことはありませんでしたが、「ここで防いで、御命のかわりとなります。その間に周防長門に渡り御身を全うし、御本意を達してください」と述べ、直垂の右袖を尊氏に渡すように使者に伝えました。
これを受けとった尊氏の本隊は、いったん退いた兵をまとめて後方から鬨の声を上げながら出撃します。
少弐頼尚が直義へ「今こそ大将軍がお向かいになります」と尊氏出撃を伝えました。
直義は太刀を抜いて馬を進めます。頼尚の家人が戦陣を切って突撃し、味方も続いて攻めかかり、菊池軍は退却しました。
勝利の要因
この合戦の勝利は、尊氏の武略から出たこととされましたが、勝因は尊氏・直義兄弟の連携が巧みに功を奏したことと、「一軍ヲモセズ旗ヲ巻クト、甲ヲ脱デ降人ニ出ニケリ」(『太平記』)と記される通り合戦中の寝返りが続出したことがあると見られます。
松浦党などは、尊氏に降伏すると、さっそく菊池追撃に移っています。このような中小武士団は、九州に数多く存在し、彼らは変わり身の早さでここまで生き延びてきたといえます。
鎮西探題の滅亡が、六波羅探題や鎌倉幕府滅亡と性質を異にしているのも、情勢を見てから進退を決める九州武士団の特徴をあらわしていると言えるでしょう。
九州に詳しい少弐頼尚の観測はあたっていたのです。その頼尚を味方につけたことも、尊氏の勝利の要因であったといえるでしょう。
勝利ののち尊氏は、筥崎八幡宮に陣を構えて宝剣を寄進します。直義は尊氏に「今回の戦いに勝てたのは、人の力ではなく神の御加護によってもたらされたので目出たい」と述べ、パフォーマンスを続けます。
以上に見てきた多々良浜の戦いにおける尊氏の勝利は、合戦の勝利だけではなく、源氏嫡流足利氏を九州まで知らしめる政治的な勝利を意味していたのです。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
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