1336年(建武三年・延元元年)5月25日、楠木正成は湊川の戦いに散りました。
後醍醐天皇は、生前に楠木正成が主張した作戦を採用します。
それは、後醍醐天皇は比叡山に退き、尊氏を入京させ、京都を包囲することで尊氏軍を殲滅するというもので、「守りにくく、攻めやすい」という京都の特徴を利用した作戦でした。
京都攻防戦
後醍醐天皇が比叡山に退いた後、京都に入った尊氏は東寺を城郭に構えて本陣とし、直義は三条坊門を本拠とします。
後醍醐天皇による治世は2年半で幕を閉じました。
そして、これから半年の間、京都に入った足利軍と、比叡山から山を下りて出撃する後醍醐軍との間に、京都市中で攻防戦が繰り広げられることになります。
この戦いは、足利尊氏が九州へ落ちるきっかけとなった、半年前の京都での合戦よりも大規模なものとなりました。
比叡山延暦寺(山門)は、最澄が開いた天台宗の総本山で王城鎮護の道場といわれます。寺域である比叡山自体が京都の背後の固めであり、その配下の僧兵3千が武力としてにらみを効かせていました。
後醍醐天皇にとっては、京都を尊氏に奪われても比叡山にいる限り、常に京都を脅かし、奪回の機会を狙うことができるのです。
正成はその利を献策したのですが、公家のプライドによって無視され、討ち死にすることになります。
比叡山をおさえることは、兵力や地の利だけでなく、山門と京都の経済的結びつきを押さえる意味でも重要だったのです。
京都の市民を養う米を例にとると、地方の荘園から上がる年貢は、徐々に現地やその近くの市場で取引され、銭に替えて京都へ送られるようになります。米そのものは近江や北国からの輸送に頼るようになります。
近江は、言うまでもなく比叡山のお膝元で、寺領の荘園が国内に広く散在していてました。近江米や北国米の運送に当たるのは、山門の支配下にある大津や坂本の馬借(輸送業者)でした。
また、14世紀のはじめに、京都市中に土倉(どそう)と呼ばれる金融業者(質屋)が約300軒ありましたが、そのうちの240軒前後が山門の支配に属していました。
このように、山門は京都の経済に深く根を下ろしていたわけですが、これは地理的条件や延暦寺僧(山僧)の経済活動だけではなく、王朝の大きな庇護があったからこそです。
後醍醐天皇が元弘の倒幕挙兵以来、比叡山を頼り、1336年(建武三年・延元元年)の1月と5月に比叡山に逃れたのも、王朝と比叡山、比叡山と京都の軍事的・経済的結びつきがあったからです。
後醍醐方は比叡山に合流したことで、一時的でしたが士気は大いに上がり、度々京都に侵入して、足利軍と激戦を交えます。
戦火と略奪によって市中は荒廃し、さらに後醍醐方が京都につながる道をふさいだことによって、京都への兵粮が止められました。京都は戦時飢饉状態となり、軍兵の狼藉が多発し、治安は悪化します。
尊氏はこの状況を打開すべく、越前の守護斯波高経に北国路を固めさせます。
さらに、近江の佐々木高氏と従軍していた信濃国守護小笠原貞宗に琵琶湖の舟運を止めさせ山門への兵粮をふせいだことによって、逆に後醍醐方が戦時飢饉に苦しむことになります。
その中で、後醍醐方の千種忠顕や名和長年が足利軍との交戦の末戦死しました。
光明天皇即位
後醍醐天皇が山門に逃れたとき、持明院統の花園上皇と光厳上皇、豊仁親王(光厳上皇の弟)は密かに帰京します。
尊氏は、直ちに迎え入れて警固します。そして、戦局の見通しのついた8月初めから、持明院統が有する所領や有力寺院や貴族の所領の所有権を確認し、武士の略奪・侵害を禁じる命令を発しました。
尊氏は、荘園領主勢力に対して荘園支配を保証することで、後醍醐天皇がおこなった「旧体制の否定」の否定、つまり旧体制への復帰を表明したのです。
そして、この一連の動きは、足利尊氏が建武政権に代わって政治を行い始めたことを意味していました。
8月15日、尊氏・直義の要請で、光厳上皇の院政が行われることが決定され、光厳上皇によって豊仁親王の即位の儀が行われました。光明天皇の誕生です。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の手元にありますので、神器なくして即位した後鳥羽・光厳の先例にしたがって、光厳上皇が伝国の詔書を発布するにとどめまています。
11世紀以来の常態化した院政のもとでは、院政を行う上皇が事実上、王朝の主権者、つまり「治天の君」と呼ばれていました。
したがって、貴族たちの関心事は、誰が天皇になるのか?よりも、誰が院政を行うのか?が最大の関心事でした。
貴族たちは、光厳上皇が元弘の乱でわずか3年で廃位されたことから、不吉として光厳院政に反対しましたが、尊氏・直義の要請で実現することになります。
尊氏・直義にとって、「治天の君」は光厳上皇でなければならない理由がありました。
尊氏・直義は、後醍醐天皇によって朝敵の汚名を着せられ、窮地に追い込まれましたが、その状況を打開できたのは光厳上皇の「後醍醐天皇追討の院宣」があったからです。
光厳上皇を「治天の君」にすることで、尊氏・直義はその恩に報いたといえます。
また人々は、光厳上皇を「将軍から王位をもらった大果報者」と呼びました。
講和
京都攻防戦が始まって100日。後醍醐天皇と足利尊氏の対決は、足利尊氏の圧倒的有利の状況となります。
尊氏は後醍醐天皇に講和を申し入れ、後醍醐天皇は承諾して下山を決意します。
講和の条件は、後醍醐天皇と光厳上皇が和睦して、後醍醐天皇は光明天皇に譲位し、皇太子には後醍醐天皇の皇子を立てるというものでした。
持明院統と大覚寺統が交互に皇位につく両統迭立の復活というわけです。
ところが、後醍醐方ではこの講和に対してひと悶着が起こります。
この講和は、後醍醐天皇の独断で妥結されていたのですが、足利尊氏と正面切って対立してきた新田義貞が切り捨てられる形となります。
義貞とその一族は、京都に帰還する後醍醐を取り囲み「義貞を逆賊に転落させて、見殺しにするつもりか?」と迫ります。
その結果、後醍醐天皇は皇太子を恒良親王とし、その恒良親王を義貞に預けることで義貞をなだめたのでした。
義貞は、恒良親王だけでなく、尊良親王をもつけさせ、洞院実世・関東の千葉氏・伊予の河野一族とともに越前に向かい、さらに戦いを継続することとなりました。
新田義貞に預けられた両皇子は地獄を味わうことになります。
またこのとき、天台座主として比叡山を統轄してきた皇子尊澄と北畠親房は伊勢に、懐良親王は大和の吉野に、四条隆資・中院定平はそれぞれ紀伊・河内に下りました。
1336年(建武三年・延元元年)10月に京都に帰還した後醍醐は、花山院に幽閉されます。直義は後醍醐天皇に対して、光明天皇に三種の神器を渡すように申し入れました。
11月2日、後醍醐天皇から光明天皇へ三種の神器が渡されたことで、光明天皇と足利政権の正統性獲得手続きは完了したのです。
同月12日には成良親王が皇太子に立てられました。後醍醐天皇は当初恒良親王を皇太子にする予定でしたが、新田義貞とともに越前に赴いたため、成良親王が皇太子となったのです。
成良親王は、建武政権時代に鎌倉将軍府の皇子として直義とともに東国を治めてきた経緯がありますので、尊氏・直義にとっては「ありがたい」皇太子と言えるのかも知れません。
南北朝時代の始まり
光明天皇が即位し、成良親王の立太子が行われた頃、南朝勢力が各地で態勢を立て直しつつありました。
新田義貞は、恒良・尊良親王を奉じて越前の金ヶ崎城に入ります。
摂津・河内・和泉では、楠木一族が正成の遺児正行を中心に態勢を立て直し、かつて護良親王のもとに集まった和泉・紀伊の豪族を集めていました。
伊勢に下った北畠親房は、伊勢神宮の外宮の神主檜垣常昌・村松家行らの力で玉丸城などを築き、密かに軍勢召集の指令を国中に発します。
親房からの連絡によって、後醍醐天皇が花山院を脱出したのは12月21日の夜。
後醍醐天皇は、楠木一族の案内で吉野(奈良県吉野町)に入り、光明天皇に渡した「三種の神器は偽物」であると宣言した上で、足利討伐を全国に呼びかけます。
ここに京都の北朝(持明院統)、吉野の南朝(大覚寺統)の2人の天皇が並び立つことになり、南北朝時代に突入したのでした。
後醍醐が吉野を本拠としたのは、京都を南からにらみ、東側の伊勢には北畠親房と西側の河内には楠木一族によって両翼を守られる戦略的な意味があったと考えられています。
さらに、吉野・熊野の宗教勢力を味方につけ、修験者の持つ情報網を利用できるという意味もありました。
奈良興福寺の門主は、日本に二つの王権が生まれた状態を「一天両帝、南北京」と記しました。
60年におよぶ長い内乱の時代が始まったのです。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
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