建武式目の制定とその背景を解説

足利尊氏の時代
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後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器が渡されて、足利政権を正統化する形式的な手続きが完了したのは、1336年(建武三年・延元元年)11月2日のことでした。

 

 

その5日後に、尊氏によって『建武式目』17ヶ条が制定されます。

室町幕府の憲法ともいうべき、『建武式目』を見ていきましょう。

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建武式目の内容

一般的に17ヶ条と言われますが、正確には2項17条です。

第1項・幕府をどこに置く?

第1項は、「武家政治の本拠地を鎌倉にすべきかどうか?(鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事)」です。

これに対する答えは、

「鎌倉は源頼朝が幕府を開き、北条義時が天下を併呑した武家にとっての吉土。(鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し、武家に於ては尤も吉土と謂ふべき哉)」と述べて、

「北条氏が滅亡した不吉な土地という批判もあるだろうが、それは北条氏が悪政を続けたのが原因で、場所が凶だからではない。ただし、鎌倉を離れたいという人が多ければ、それに従うべき。(居所の興廃は政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。但し諸人若し遷移を欲せば、衆人を情に随ふべし)」と述べています。

つまり、幕府の本拠地は鎌倉が望ましいけど、鎌倉にこだわらないというわけです。

このことから、幕府の本拠地を京都にすることを念頭に置いて記されていると言われていますが、この項には「特に深い意味はない」と言われています。

要するに、次に述べる本題である第2項の前段のお話というわけです。

第2項・政道の事

本題の第2項。「政道」のことです。

「何よりも鎌倉幕府の全盛時代の政治を模範として、民を安んずることをもって、政治の至要とすべきである。(先ず武家全盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済々たり、故実を訪はんにおいては、何の不足あるべきか。古典に日く、徳これ嘉政、政は民を安んずるにあり、と云々)」として、その具体的な施策17ヶ条を列挙しています(早く万人の愁を休むるの儀、速やかに御沙汰あるべきか)

  1. 倹約を行わるべき事
  2. 群飲佚遊を制せらるべき事
  3. 狼藉を鎮めらるべき事
  4. 私宅点定を止めらるべき事
  5. 京中空地を本主に返さるべき事
  6. 無尽銭土倉を興行せらるべき事
  7. 諸国守護人、殊に政務器用を択ばるべき事
  8. 権貴並び女性禅律僧口入を止めらるべき事
  9. 公人緩怠を誠めらるべし、ならびに精撰有るべき事
  10. 固く賄貨を止めらるべき事
  11. 殿中内外に付き、諸方進物を返さるべき事
  12. 近習者を選らばるべき事
  13. 礼節を専らにすべき事
  14. 廉義名誉有る者、特に優賞せらるべき事
  15. 貧弱輩の訴訟を聞こし召さるべき事
  16. 寺社訴訟、事により用捨有るべき事
  17. 御沙汰式日時刻を定めらるべき事

色々書いてありますが、その内容は大きく3つに分けられます。

第1に道徳的項目。1.倹約、2.飲酒の禁止、13.礼節などが当たります。

第2に治安維持項目。3.狼藉停止、5.空地の返付、6土倉の興行、7.諸国守護人などが当たります。

5.空地の返付は、後醍醐方として土地を奪われた人々の実態精査を命じたもので、6.土倉の興行は、後醍醐政権での課税増大や、「尊氏 vs 後醍醐」の動乱により廃れた土倉=金融業者の再建をうたっています。

建武政権崩壊後の混乱への対処を示しています。

7.のしかるべき人材を守護に登用することも、「地方の安定を図ろう」とする意志のあらわれです。

第3に政治倫理項目。8.政治口入の禁止、9.官僚や近習の引き締め、10.11.進物の禁止、15.16.17.褒賞の基準や訴訟のあり方などとなっています。

で、「どの項目が最も大切か?」となると、治安維持項目です。

というのも、『建武式目』が制定される少し前まで、後醍醐勢と足利勢は京都を舞台に半年にわたる攻防戦を演じていました。

 

 

そして、入京した足利勢の兵粮ルートを後醍醐勢が分断したため、足利勢が兵粮不足に陥るという「戦時飢饉」が発生しました。その結果、足利勢による掠奪などが京中で深刻な問題となったのです。

尊氏が『建武式目』において治安回復の項目を宣言したのは、こういう背景があったのです。

17ヶ条の由来

『建武式目』の17ヶ条という数字は、聖徳太子の憲法17条に倣ったという説と、『御成敗式目』の51条を1/3にして、17条にしたという説があります。

 

 

中世は、太子信仰がさかんだったことから、『御成敗式目』は憲法17条を3倍にして51条にしたという解釈が行われています。だから、言っていることは同じです。

どっちでもいいような話ですが…

 

室町幕府の方針

鎌倉幕府再興

建武式目によると、室町幕府の基本的な政治方針は、鎌倉幕府への復帰です。鎌倉幕府再興といってもよいでしょう。

「武家全盛の跡を逐い」「義時泰時父子の行状を以て近代の師となし」といっているように、鎌倉後期の北条得宗専制政治を否定して、その前の段階である「執権を中心とする合議制時代」に復帰することを目指しています。

建武政権の否定

また、『建武式目』では、建武政権に対する批判や親政否定をおこなっています。

「女性禅律僧口入を止めらるべき事」、「徳これ嘉政、政は民を安んずる」という部分は、「北畠顕家の諌奏」と合致する部分です。「二条河原の落書」で指摘された「華美の風潮、茶寄合・連歌での賭博、京都市中民家の強制収用、不公平な裁判など」を禁止しています(主に1条~5条)。

 

 

将軍の下に、公家・武家を統一

『建武式目』は、「義時・泰時父子の行状」と並べて、「延喜天暦両聖の徳化」も模範とすると述べています。

「延喜・天暦にかえれ」というのは、建武の新政での後醍醐天皇のスローガンだったのですが、これをとり込んでいます。

建武政権の批判・天皇親政の否定をうたっているにも関わらず、後醍醐天皇のスローガンを取り込んだのはなぜでしょうか?

後醍醐天皇は、「延喜・天暦にかえる」ことによって、「公家一統政治」を目指そうとしました。天皇の下に、公家・武家を統一するという意味があったのです。

足利尊氏は、「延喜・天暦」と「義時・泰時」を並べることで、将軍の下に、公家・武家を統一する意思を明らかにしたのでした。

かつて、北条泰時は『御成敗式目』で、武家は武家、公家は公家で、幕府が朝廷に介入する意思がないことを明言していますが、尊氏は幕府が武家も公家も支配する日本で唯一の統一権力であることを主張したのです。

この点をもっと具体的な形で示しているのは守護任用を記した7条です。

「守護は古代の国司にあたる。国内がよく治まるか否かは守護職にかかっている。しかるべき能力ある者を守護に任用すべきであって、戦功の賞として守護職を与えるのは誤りである。(守護職は上古の吏務なり、国中の治否は只この職による。尤も器用を補せらるれば撫民の儀たるべきか)」という趣旨です。

建武政権では、国司による地方支配の復活が試みられました。しかし、鎌倉幕府によって設置された守護の権限を相当奪うものだったので、守護の不満が高まります。

 

 

一方の室町幕府は、自身を全国統一政権と規定し、地方の統治は幕府の守護制度一本に絞ることになります。

『建武式目』は、室町幕府の早急におこなうべき施策から幕府の支配体制の基本を定めたものなのです。

建武式目の影響

以上のように、武家政治を再開するに当たって、2つの問題を論じ、具体策17ヶ条をあげたのが『建武式目』です。

ところで、『建武式目』は普通の法令と違って答申書の形式(Q&A形式)をとっています。

答申者は鎌倉幕府の政務にたずさわった経歴をもつ二階堂是円・真恵兄弟や、当代第一の学者である藤原藤範・玄恵ら8人です。

また、武士の基本法というべき『御成敗式目』とは趣が異なっています。為政者の心構えや当面の施策の発表という内容で、現代的に言えば「選挙公約」に近いと言えるかもしれません。

ですから、「建武式目は法律か?」という議論もあるようです。

ま、法律であろうがなかろうが、重要なのは「当時の人々が建武式目をものすごく大切にしていた」ということではないでしょうか?

『建武式目』と『御成敗式目(貞永式目)』は、15世紀ごろにはセットで『貞建の式条』と呼ばれるようになります。

 

 

『貞永式目』の「貞」と、『建武式目』の「建」を取って『貞建の式条』です。

『建武式目』は、武士の基本法である『御成敗式目』と同様に、当時の武家社会では重要な法律として扱われるようになったのです。

 

参考文献

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

早島大祐『室町幕府論』講談社。

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