鎌倉時代は、武士が政治の表舞台に出てくる大転換期といえる時代でしたが、宗教の世界もまた大転換期だったということを無視するわけにはいきません。
浄土宗や日蓮宗、禅宗とっいった歴史の時間で学んだ「鎌倉仏教」とよばれる宗派が登場したのです。
とはいえ、歴史の教科書にのっている通りの無味乾燥な内容を記事にしてもつまらないので、1250年頃、執権北条時頼の時代の鎌倉と鎌倉仏教を見ていきましょう。
(当サイトは、特定の宗派を肯定したり、否定したりするつもりはありません。本記事は、鎌倉時代に勃興した「鎌倉仏教」を通して、鎌倉時代が読者の皆様にとって身近な時代になればと考えておりますので、ご理解のほどよろしくお願いします)
日蓮宗
日蓮の生い立ち
鎌倉仏教の看板といえば浄土宗・日蓮宗・禅宗かと思いますが、強烈な「個性」という意味では日蓮の右に出る者はいないと思われます。
日蓮は、1222年(承久四年)に安房国の小湊という漁村で生まれました。日蓮は強烈な信念と布教活動で、しばしば幕府を巻き込んでその名を歴史にとどめます。
日蓮は、12歳のときに仏法のこと、世間のことに疑問を抱き、父母の許しを得て、近くの清澄寺の道善房という僧侶に師事することになりました。清澄寺は天台宗の寺院で、安房では名の知れた名刹でした。日蓮はここで薬王丸と名づけられます。
薬王丸こと日蓮は熱心に勉強しますが、自身の疑問を解決できませんでした。そこで、道善房のもとで剃髪し出家して、名を是聖房蓮長と改め諸国遊学に旅立ちます。
蓮長こと日蓮は4年ほど鎌倉で過ごしたあと、一時清澄寺に戻り、比叡山に上って勉学に励みます。30歳前後から三井寺・高野山・四天王寺および京都の諸寺をまわり、諸宗を学び比叡山に戻ります。
日蓮は、「仏教の真髄は天台宗と真言宗だが、天台宗の法華経こそが真実の仏説をあらわしたものだ。しかし、今の天台宗は真言密教の影響を受けて最澄の精神を忘れているのでダメだ。南無妙法蓮華経の七字の題目の中に仏法が集約されているので人々に広めねば!(超約)」と考えたのでした。
日蓮は清澄寺に戻ると、師の道善房たちに向かって、禅や念仏は法華経を放棄する偏見の邪宗だと攻撃します。これを聞いた者はあきれ返り、念仏を信じる地元の地頭東条景信は日蓮を斬ろうとしました。
師の道善房は、日蓮を勘当という形で避難をさせましたが、自身の確信を世間に広げようと鎌倉へ出ていきます。
日蓮は、鎌倉松葉ヶ谷に庵をつくり、弟子も徐々に増やしていきます。そして、毎日のように幕府の前の通りに近い小町の夷堂の側に立って、通行人に説法し続けました。
「法華経こそが真実」という主張はよいとしても、法華経を放棄している念仏は地獄へ落ちる、禅は天魔の法であると言ったので、聴衆からの罵倒や投石が絶えませんでした。
日蓮にとっては、このことも教典に予言された通りの試練だったらしく、ますます法華経への確信を深めていきます。
『立正安国論』
日蓮が幕府の近くで辻説法をしていたころ、毎年のように大地震・暴風雨・疫病・火災・干ばつ・洪水が続きました。たまたま起きた日食・月食に飢きん・疫病が続いたことで世情は不安定になります。鎌倉中期~後期はこのような飢きんなどがしばしば起こる大変な時代でした。
日蓮は、これらの度重なる災害には何か原因があると考え、様々な教典を調べまくります。その結果、これらの災難が起こることは全て教典に書いてあったことを発見します。
そして、「三災と七難」といわれるもののうち、二災と五難が日蓮の生きている時代の災難に該当することがわかったのです。
それでは、残る一災と二難は何か?
それは、兵革の災と他国侵逼の難・自界謀叛の難、つまり外敵の侵略と内乱だったのです。後の、蒙古襲来として現実のものとなります。
日蓮によれば、このような災難が起こるのは念仏と禅を多くの人が信じているからで、残る一災と二難も回避しなければならず、自分の予言を幕府に伝えて、考え直してもらわなければならないと考えます。
日蓮は著名な『立正安国論』を作成し、北条時頼の近臣宿屋光則に面会し、時頼に渡すように依頼します。
時頼は4年前に執権職を赤橋長時にゆずり、最明寺で出家していたのですが、得宗としての地位にあり続け、幕政を牛耳っていました。
>>>北条時頼の政治について
しかし、時頼は日蓮の提言を完全に黙殺します。時頼は禅宗の熱心な信者でしたから、聞く耳はなかったようです。
その『立正安国論』。法然が記したことで有名な『選択本願念仏集』をはじめとする浄土宗系の念仏を攻撃していたことから、それを知った念仏信者が日蓮の鎌倉松葉ヶ谷の庵を襲撃するという事件に発展します。
日蓮は、それでも幕府の近くで辻説法を続けるので、念仏信者は幕府に告発。結局、伊豆に流罪となります。
禅宗
日蓮が鎌倉で投石や罵倒に負けずに布教をしていた頃、1253年(建長五年)に建長寺の落慶供養が行われました。開山は、宋の渡来僧で蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。
蘭渓道隆は、中国の四川出身で13歳で出家して臨済禅を習得します。
1246年(寛元四年)、34歳のときに入宋していた日本の僧のすすめで弟子とともに日本へ渡来し、鎌倉寿福寺へ入りました。
執権時頼は蘭渓の噂を聞き、大船の浄楽寺へ迎え入れて厚く遇します。蘭渓もそれにこたえ臨済禅の普及に力を注ぎます。
日本に禅宗が伝わったのは、蘭渓よりもっと以前の平安末期~鎌倉初期、栄西によってもたらされていました。栄西は日本に茶を紹介した僧として知られています。
禅が確立したのは、蘭渓が建長寺で座禅の作法を正し、弟子の育成に努めてからとされています。
さらに、蘭渓は「皇帝の万歳を祈る」ことを標榜していたことから、将軍や執権の安泰についても祈祷し、幕府権力者の帰依を受けるようになります。
蘭渓が建長寺に入るのに続いて、京都から円爾(えんに)が鎌倉へ来ます。
円爾は京都の東福寺・万寿寺などで活躍していて著名な僧で、うどん・そば・饅頭を留学先の宋から日本にもたらしたと言われています。円爾は、鎌倉では寿福寺に住み活動します。
こうした動きによって、鎌倉では禅風が盛んになっていきました。
鎌倉武士に流行ったのは念仏
鎌倉時代は、禅宗が朝廷や幕府に保護された経緯から、鎌倉武士から熱烈な支持を受けたと思われがちですが、実際はそうでもありませんでした。
禅宗に帰依したのは時頼や時宗くらいで、多くの鎌倉武士にとって禅宗の教えは難解すぎて、禅問答にいたっては「とんちんかん」なことを言っていたと伝わっています。
執権北条義時や泰時も念仏を信仰しており、一般鎌倉武士ともなると念仏に帰依していた者の方が多かったと言われています。
副執権というべき連署の極楽寺流北条重時(北条泰時の弟で、時頼の叔父)は、浄土宗開祖法然の弟子修観に帰依していました。重時は浄土宗系の寺院として極楽寺を開きます(のちに真言律宗寺院に改宗)。
また、金沢流北条実時も念仏信者で、自領に称名寺を建てます(のちに真言律宗寺院に改宗)。金沢実時は、金沢文庫を称名寺に創設します。
1252年(建長四年)には鎌倉大仏が金銅像に作り直されるなど、念仏は幕府周辺で強大な勢力をもっていたのです。
また、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺では、多くの北条一族と被官が最期の念仏を唱えて死んだと伝わります。
真言律宗
日蓮宗・浄土宗・禅宗などが流行る一方、奈良仏教の僧も鎌倉で布教活動に勤しみます。
奈良西大寺の叡尊は真言宗の僧でしたが、律宗の復興に生涯をささげ、真言律宗を起こします。
叡尊は、各地で橋をかけ、病人や貧者を救済して行基菩薩の再来とあがめられていました。
その叡尊の弟子の忍性は、関東での律宗の布教をはかって、北条重時の鎌倉極楽寺に入り活動を開始しています。療病院・薬湯堂・施薬悲田院・病宿・無常堂等を設けて、極楽寺は現代でいう統合型医療福祉施設だったようです。
極楽寺重時や金沢実時は、念仏だけでなく真言律宗にも深く帰依していったのでした。
文化都市鎌倉
鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺・大慈寺などでは、天台・真言の名高い僧が住み幕府関係者の帰依を受けていました。
このように、日蓮宗や禅宗、浄土宗、真言律宗など「鎌倉仏教」とよばれる宗派だけでなく、天台宗・真言宗といった旧仏教など様々な宗派が1250年頃の鎌倉で積極的に布教活動を行っています。
その結果、鎌倉の町は頼朝が幕府を開いたころと違って、宗教・文化都市へと変貌を遂げていたのです。
参考文献
黒田俊雄『日本の歴史8~蒙古襲来』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
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