承久の乱によって、政治の実権は公家から武家へ移りました。
と、文字で起こすと、「簡単な」出来事に見えてしまいますが、この事件は当時の社会において相当なインパクトをもたらしたことは想像に難くありません。
それは、明治維新に匹敵するような大転換期と言ってもよいでしょう。
このような大転換期の時代は、とにかく社会混乱をもたらします。そして、この時代の混乱は、主に新たに任命された地頭の行動によって引き起こされようです。
特に、畿内・西国を中心にトラブルが巻き起こるようになりました。
「伊賀氏の変」を制して幕府執権の座に就き、評定衆のトップとなった北条泰時は、早速この問題を解決することが求められたのです。
『式目』制定への道
そもそも、鎌倉幕府が成立してのち、幕府には明文化された法は整備されていませんでした。慣例によって裁断が下されていました。
しかし、朝廷を凌ぐ実権を握るようになった幕府は、「何かを拠りどころ」にして裁判の充実をはからなければならなくなったのです。
「先例」か「道理」か
その拠りどころとして最初に考えられるのは、過去の「先例」です。とくに「右大将家之例」とよばれた、頼朝時代の「先例」を基準に求めることでした。
しかし、この「先例」にも限りがあります。頼朝時代と違って、多くの条件が変化してきたことから、「先例」を基準として判断できない事例も発生していました。
次に「道理」を基準とすることがあげられます。つまり、武士たちがみな納得するような「常識的正義」のことです。
泰時はつねに「道理、道理」と強調し、「道理ほど面白きものなし」と言って、涙まで流したと伝えられています。涙まで流すとは…。
しかし、具体的な事件の裁決にさいして、ただ「道理」ばかりを繰り返していたのでは何の解決にもなりません。立場が異なれば道理も異なります。「武家の道理とは何か?」を検討する必要があるのです。
やはり、なんらかの具体的な「ものさし」が必要となるわけです。
「律令」の導入を検討するも…
すでに幕府は、承久の乱後の新地頭の地位や得分について、いくつかの規定や法令を発布してきました。
しかし、それだけではあまりにも不十分だったので、泰時は明法道(法学)を家業とする公家に依頼して、「律令」などの朝廷の法律の要点を書きだしてもらい、毎朝熱心に勉強したようです。
しかし、当時の公家による律令の解釈では、地頭以下の所領を十分に保護することはできず、ほかにも多くの問題がありました。
律令は、武家社会の実情に即したものとは言えないものだったのです。
たとえば、御家人の未亡人が養子をとって所領を譲ることは、武家の間では当たり前のように行われ、幕府もこれを容認してきましたが、公家の法律家はこれを認めませんでした。
また、別々の主人のもつ奴婢の間に生まれた子をどちらの主人の所有とするかという問題でも、男子は男親に、女子は女親につけるのが武家のならわしでしたが、公家の法律家たちは、律令によれば奴婢は家畜と同じなので、奴婢の子供はみな女親の主人のものとすべきと主張したのでした。
このように、律令を武家社会に適用することは無理があることが分かってきました。
やはり武家の「道理」を基本とし、「先例」を取り入れながら、統一的な武家社会の基本となる「法典」を作らなければならないと泰時は考えるようになったのです。評定衆の意見も同様でした。
武家のならい、民間の法
泰時を中心とした評定衆たちが案を練り、編集を進めてきた幕府の新しい基本法典が完成したのは1232年(貞永元年)8月でした。全部で51カ条。
当初は『式条』『式目』とよび、やがて裁判の規律としての意味で『御成敗式目』、編集年をとって『貞永式目』とよぶようになります。
法典の完成にあたって泰時は、六波羅探題北方で弟の極楽寺流北条重時に手紙を書き送っています。
「多くの裁判で、同じような訴えであっても、強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平をなくし、身分の高下に関わらず、ひいきなく公正な裁判をする基準として作ったのが、この式目である。京都辺りでは『ものも知らぬ東夷(あずまえびす)共が何を言うか』と笑う人があるかもしれないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。
しかし、田舎では律令の法に通じているものなど、万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は、漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠節を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのをすてて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ」
この『式目』はいったい何を根拠に作られたのか、という問いに対しては、
「まことにさせる本文(典拠)にすがりたることは候はねども、ただ道理のおすところを記され候ものなり」
つまり、ただ『道理』に従っただけと答えています。
泰時は、「朝廷の律令は立派な法律だけど、『武家のならい・民間の法』として全く使えない。武家社会の習慣や民間の慣習法の『道理』に基づいてつくられた我々の『式目』こそ法律だぜ!」と叫びたかったのではないでしょうか?
参考文献
石井進『日本の歴史7~鎌倉幕府』中公文庫。
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