高師直・師泰軍の強さの秘密

足利尊氏の時代
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南北朝時代序盤。南朝は次々と有力武将を失い、北朝優勢となります。この北朝優勢の勲功第一位と言えるのが高師直・師泰兄弟ではないでしょうか。

高兄弟の主な戦績を見ると非常に目覚ましいものがあります。

1337年3月…師泰、新田義貞が籠もる越前金ヶ崎城を攻略

1338年1月…師直の従弟師冬、北畠顕家軍を美濃の青野原に防ぐ

1338年2月…師直・師泰、顕家軍を奈良で破る

1338年5月…師直、和泉の堺浦で顕家軍を撃破、顕家敗死。

1347年1月…師直・師泰、楠木軍を河内四条畷で撃破、正行敗死。

高師直・師泰率いる軍は、南朝の有力武将を次々と討っていきますが、なぜ強かったのでしょう?

今回は、北朝優勢に導いた高兄弟の強さの秘密を探っていきたいと思います。

 

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強さの秘密

高師直・師泰は、尊氏直轄軍団の長だったこともあり、幕府の本拠地である「京都」を脅かす敵を撃破する任務が与えられていました。

幕府の軍事体制からすれば、越前は斯波、美濃は土岐、和泉は細川といった守護が、それぞれの国で敵軍を撃破していく任務を負っているのですが、それでは対応できずに撃破され、京都が敵の脅威にさらされる危険が生じたときに、幕府は師直らを長とする直轄軍団を防衛戦に投入したのでした。

まず、師直・師泰が用兵・作戦に当たって、寺院や神社などの精神的な権威をおそれなかったことから、自由な作戦行動をとることができたことがあげられます。

当時の戦闘においては、敵の陣地や城塞に火を放つことは珍しいことではありませんでしたが、敵が神社・仏閣を陣地にすると、これを攻撃し焼き払うことは、相当勇気のいることでした。

なぜなら、神仏の怒りを買えば勝ち目はないと考えられていたからです。当時の戦は、人間が行うと同時に神々も戦っていると信じられていました。その神仏を攻撃するなど「あり得ない」話です。

しかし、師直・師泰兄弟にはそのような考えはありませんでした。1338年(建武五年)6月、北畠顕家が堺で敗死したのち、摂津から山城に進出していた南朝の別動隊は男山の石清水八幡宮の社殿に立てこもって、幕府軍と戦いを続けていました。

石清水八幡宮と言えば、平安時代から王城鎮護の神社であり、源氏の氏神として軍神を祀る神社でもあったので、足利勢も手荒な攻撃はできないと南朝軍は考えていました。ところが、師直は風雨の夜を選んで、社殿の東南隅に火を放って焼き払い、男山を奪取します。

時代は少し下って1348年(貞和四年)。師直は吉野に侵入して、南朝の内裏から蔵王堂の社殿までことごとく焼き払い、師泰は河内磯長(しなが)の聖徳太子廟を焼き払います。師泰の軍勢は廟内に乱入して砂金以下目ぼしいものを奪い取り、太子像の衣まではぎ取る暴挙に出ています。

師直・師泰の強さの要因は、神仏の罰や天皇の権威も恐れず、当時の常識では考えられない新戦法を積極的に採用していったことにあると言えます。

第2に、師直は尊氏の執事として、半済・兵粮料所・要害地・関所などを設定し、守護に対してそれらを管理するための命令を発する地位にありました。

この軍事的な権限を、自分の軍団を動かす場合に大幅に流用します。そのことによって、師直率いる軍勢は、兵粮・物資の調達といった兵站においても南朝側を圧倒していきます。つまり、長期戦に対応できる軍となったのです。

一方で、師直勢は近隣の荘園を勝手に切り取る行為に出たことにより、貴族や寺社が、師直・師泰の軍勢によって荘園や年貢をかすめとられたと憤慨して幕府に申し出る騒ぎになりました。

このような申し出を受理する立場にあったのが直義です。師直・師泰と直義はこの件においても対立を深めていくことになります。

第3に師直・師泰は、出身は様々ですが、精強な軍団を組織していました。畿内周辺の戦いでその精強さが発揮されたのは、土豪クラスから名主・百姓といった成り上がりの武士クラスまで、畿内周辺の土着武士たちが師直らの軍団を構成していました。そして、彼らを参加させるために師直は「半済(はんぜい)」を利用して、所領を反対給付していったのです。

もともと、半済は尊氏によって始められたものでしたが、これを広範に適用することができませんでした。それは、尊氏に属する武士が御家人という特権階級だったからです。

御家人は、将軍に「奉公」する対価として、将軍から所領の「安堵」を受けることができる特権階級です。

 

 

特権階級は、一部の階層に独占されていてこそ意味があるわけで、それが他の階層に解放されてしまうと特権ではなくなってしまいます。つまり、特権社会は閉鎖的でないといけないのです。

鎌倉幕府が「閉鎖的な組織」と言われるゆえんがそこにありますが、旧鎌倉幕府の御家人を主力とする尊氏の軍団もまた閉鎖的だったわけです。当初の足利軍に、御家人以外の武士がたやすく入り込めない理由がここにあったわけです。

その御家人以外の武士たちに足利軍の門戸を開いたのは、各国の守護や、師直・師泰ら新興守護だったのです。

彼らは、武士一人一人の旧身分や出身はそれほど重視しませんでした。そして、師直ら畿内近辺の守護は半済・兵粮料所と称して、荘園や国衙領を勝手に家来に分け与えることができたのです。もちろん、事前に北朝や領主に断りを入れる必要がありました。師直らはその手続きを省いたことによって、荘園領主が抗議し、幕府が禁止令を出さなければならない事態となりますが・・・。

師直・師泰は、御家人ではない武士たちに恩賞として所領を与えることで、新しい戦力を吸収していったのです。

むすび

元弘の争乱以来、政治の動向に大きな影響を与える勢力となった畿内近辺の土着武士層は、室町幕府草創期では南朝側と幕府側にわかれましたが、幕府側では一部は将軍直属の御家人となり、大部分は守護の下に入りました。この土着武士たちの大部分を吸収したのが師直・師泰兄弟で、新たな戦力と戦法によって南朝を追い込んでいったのです。

参考文献

佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。

小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。

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