新田義貞・北畠顕家・後醍醐天皇という南朝の主役が没し、1347年(貞和三年)8月に楠木正成の子正行が河内・和泉で蜂起するまでの約10年の間、比較的穏やかな時期が続き、幕府にとっては基盤強化・内政強化の時代だったといえます。
初期室町幕府は、将軍尊氏と弟直義による二頭政治体制といわれていましたが、当分に配分されていたのではなく、幕政は直義中心に運営されていきました。
今回は、この期間に直義がどのような政治を行ったのか見ていきましょう。
荘園領主保護
直義の管轄する機関に、「引付方」という裁判機関がありました。鎌倉幕府の引付方と同様の組織です。引付方における裁判の結果が示されるものが「裁許状」とよばれるもので、直義が署名して発給し、訴人(原告)と論人(被告)双方に渡されます。
現在残る直義の裁許状によれば、武士対武士の相論(紛争)が20例で、貴族・寺社などの荘園領主対武士の相論は50例ほど残っているそうですが、ほとんどが訴人が勝訴となっていているようです。荘園領主対武士の場合、ほとんどが荘園領主が訴人ですので、荘園領主が多く勝訴したことになります。
このことから、直義の裁判は訴人有利・荘園領主有利の傾向があったと考えられています。しかし、荘園領主が有利となる判決は、尊氏や高師直の方針と対立する部分と言えます。
南北朝時代初期、足利勢は京都周辺の荘園の荘官(公文・下司)クラスの中小武士を積極的に動員し、本来は荘園領主が決めるべき荘官職の進退を安堵していました。動員に応じた場合には、荘園の半分を地頭職として給与していたのです。これは後に行われる「半済」とは異なりますが半済の一種と言えますし、将軍による新恩給与を意味していました。
これを主体的に行ったのは尊氏や高師直・師泰兄弟です。
このように、荘園職を恩賞化することで畿内周辺の中小武士の動員し、南北朝内乱序盤における北朝方の優勢につながったのです。
直義の裁許状は、このような方針に対して否定的だったことを物語っています。直義は、鎌倉幕府の先例を重視し、荘園の押領(荘園領主から許可を得ていない半済は、所領を横領したことと同じです)を進める武士を抑圧し、荘園領主を保護していくものでした。
1339・1340年(暦応二、三年)、1343・1344年(康永二、三年)、1346年(貞和二年)に、守護以下の武士に対して、半済その他禁止令を発布しています。
室町幕府は、『建武式目』で「北条義時・泰時父子の行状を以て、近代の師となす」と謳っており、その泰時は「武家は武家、公家は公家」と主張していましたから、直義は忠実に『建武式目』を実行しようとしていたのでしょう。
新法の制定
倹約条々
室町幕府追加法(『御成敗式目』『建武式目』の追加法)に、直義が発布した「倹約条々」という法があります。
臨時の課役について、従来のもの以外の賦課(つまり新しい賦課)を停止しています。また、課役を土民(本貫地に居住している人。未開人という意味ではありません)に賦課させることを禁止し、地頭が出すべきとしました。
『建武式目』の「徳は是嘉政、政は民を安んずることにあり」を実行しようとした直義の姿勢を知ることができます。さらに、正月の引き出物や出仕の際の武具なども贅沢で派手にならないように規定されていますが、バサラを嫌う直義の性格が表れていると言えるでしょう。
守護人非法条々
1346年(貞和二年)12月に制定された法令です。
そこでは、大犯三箇条と苅田狼藉・使節遵行以外に、守護が所領関係などで地頭御家人に煩いをかけることや、年貢徴収や仏神用途の催促と言って使者を派遣して民屋を追捕すること、兵粮や借用と号して土民の財産を責めとること、新しい関所を構えて津料や山手・川手などの税金を課して旅人に煩いをかけることを禁止しました。
もし、この法に違反した場合は、すぐに守護職を改易するとしています。
尊氏は守護に権限を大幅委譲していますが、直義はその権力が濫用されないようにブレーキをかけようとしたのでした。
二月令と諸国狼藉条々
1346年(貞和二年)の2月5日と12月13日、直義は私戦を禁止することを目的とする法令を発布します。
二月令は五カ条の内容で、第1条は「故戦防戦事(こせんぼうせん)」で、室町時代に何回かにわたって出された故戦防戦法の最初のものとなります。内容は、紛争において武力行使がなされた場合には、故戦方(戦いをしかけた方)は道理(正当な権利)があっても処罰する。また、防戦方は道理があれば無罪、道理がなければ処罰の対象とする、というものでした。武士が自らの武力で問題を解決する「自力救済」行為を禁止する法令でした。
第2条では重大犯罪とされた苅田狼藉について、所領三分の一没収の処罰を決め、第3条では新関および津料徴収の停止、第4条では寄沙汰を禁止(他人の借用書をもって債務者からの取り立てを行うこと)、第5条では山賊・海賊への対応が決められました。直義は、法によって秩序・平和形成を求めたのでした。
しかし、この二月令では十分な効果が現れなかったようで、12月に「諸国狼藉条々」という五カ条の法を制定しました。
第1条は「故戦防戦事」で、二月令の修正令としての性格をもちます。故戦方(戦いをしかけた側)は正当性のあるなしに関わらず処罰することは二月令と同じですが、所領没収のうえに配流という厳しい量刑が規定されました。
第2条では他人の所領に乱入し、正当性のない押領を行うことを禁止しています。第3条では苅田狼藉、第5条は山賊・海賊についての規定で、ほぼ二月令の内容です。
第4条が大きく変わり、「一揆衆と号し濫妨いたす事」に対する法であり、他人の所領を押領し、使節の遵行を妨害し、私的な恨みを晴らすために「一揆と号し」また「党類」を率いて合戦するものについて、特に重罪であるとして、守護・使節の報告によって厳しい罪科に処すことを規定しています。悪党・一揆禁止令というべきものです。
この時代、悪党や一揆は、集団を形成して何らかの地域的な正当性を獲得し、それを主張して(号して)私戦の主体となっていました。
この条項は、そのような地域から生まれた正当性そのものを否定したのでした。幕府(直義)こそ正当であるという主張の現れでした。
朝廷の重要儀式を幕府が行う
1346年(貞和二年)9月26日に三条坊門の直義邸(直義は三条殿とよばれていました)で、直義主宰の五檀法が修法されることになります。
五檀法とは五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)の各護摩壇を設けて同時に修するというもので、彗星や地震などの天変地異がおこった際に行われるもので、最高の国家的祈祷だったようです。
国家的祈祷だけあって本来の主催者は朝廷なのですが、その行事が直義邸で行われたことに意義があります。そして、直義邸で行われて以降、ほとんどの五檀法の修法は武家が執り行うようになります。
時代が下って足利義満の時代になると、天皇の即位や朝廷の行事の多くが幕府のお膳立てなしに行えないくらいに、幕府の影響力は大きくなります。
その先駆者が直義で、直義が朝廷と密接な関係を築いたからこそ、幕府が朝廷を凌ぐ力を得ることが出来たのです。
武家が公家化したと言われる所以ですが…
宗教政策
五山十刹
五山十刹は禅宗寺院の格付けで、元国の寺院制度に由来し、日本では鎌倉時代末期、鎌倉幕府が鎌倉の禅寺に五山の称号を与えたのが始まりと言われています。
直義は京都・鎌倉の有力禅寺を総合して、五山十刹の格付けを行いました。その後、大徳寺が出て行ったりするなど多少の出入りはありますが、夢窓疎石と聖一の2人の門流に属する寺院が主に列せられました。
つまり、禅宗の中でこの2派の大寺院が主として五山に指定されて、幕府最高の官寺となり、幕府の保護下で栄えていくことになります。
五山十刹制度は、幕府が禅宗を国教化して、その特定門派に特権を付与し、南都北嶺の旧仏教に禅宗を対抗させる意味合いをもっていました。
安国寺・利生塔
また、安国寺・利生塔の建立は、元弘の争乱以来の戦没者を慰霊する趣旨で、1337年(建武四年)ごろから始められ、1345年(貞和元年)に北朝に奏請して正式にこの寺塔名になりました。
この安国寺・利生塔は、全国いっせいに建立されていったのではなく、各国守護の檀那寺が安国寺に指定されました。この安国寺も五山十刹の系列禅寺です。
8世紀に全国的に建立された国分寺が、国司の行政の一翼を担ったのと同様に、安国寺もまた守護の国内支配を助ける役割があったと考えられています。
むすび
直義の政治は、地方で暴走しがちな守護の動きをどうコントロールするか?荘園領主をどう守るか?という点に主眼が置かれていきますが(幕府と北朝との関係強化も直義の主な功績です)、守護を任命する側の将軍尊氏との間に対立が生じるのは当然の成り行きでした。
幕府に対する軍事的脅威が弱まり、施政が安定してくるとますます直義の力は大きくなっていきます。当然、直義をこころよく思わない勢力が逆転を図ろうとわけで、幕府は2つに分裂することになります。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
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