第二次観応の擾乱後、南朝軍の京都攻略によって、持明院統の光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王が賀名生に連れ去られたことで、幕府は存続の危機に立たされます。
正平の一統が破談し、再び南朝と対立した幕府は、すでに北朝が消滅していたことでその存続論理を失いました。幕府は北朝を再建する必要に迫られます。
後光厳天皇即位と北朝再建
幕府は、光厳天皇の第3皇子で仏門に入る予定だった弥仁王(いやひとおう)に白羽の矢を立てます。
しかし、弥仁王に皇位を与える資格のある上皇が3人とも南朝に連れ去られたので、践祚(せんそ)の手続きが行うことが出来ずにいました。践祚とは、先帝が譲位し、皇嗣がその位を受け継ぐことです。
そこで、義詮は弥仁王の祖母である広義門院(光厳・光明の実母)に、上皇の代わりとして践祚の手続きを行うように要請します。
しかし、広義門院にとって幕府や尊氏・義詮は、3上皇や廃太子すべてを南朝に「売った」張本人であり、相当恨んでいたようで、話は中々幕府の思うように進みません。当然といえば当然。
しかし、天皇不在で困るのは幕府だけでなく、北朝に属する皇族・公家・寺社も同様でした。
結局、1352年(文和元年)8月に弥仁王は即位して後光厳天皇ととなり、北朝は再建されます。このとき、神器の代わりに神鏡の容器である小唐櫃は用いられましたが、それは石清水八幡宮陥落直後に醍醐寺三宝院の賢俊が探し出してきたものでした。
しかし、後光厳天皇は三種の神器を欠いて即位しており(正平の一統で三種の神器は南朝に没収されていました)、続く後円融・後小松天皇も神器なしで即位することになったので、後々まで北朝の正当性が糾弾されることになります。
直冬、南朝へ
1352年(文和元年)11月、足利尊氏の庶子で、直義の養子となっていた足利直冬が南朝に下りました。
3年前の第一次観応の擾乱直前の直義と師直の対立が激化したとき、師直は、当時長門探題の任についていた直冬に討手を差し向けました。
直冬は九州に落ちますが、少弐氏と手を結んで北九州と中国地方の一部を勢力下におさめました。
ところが、第二次観応の擾乱で尊氏と南朝が講和し(正平の一統)、直義が没すると、情勢が変わって孤立状態に陥ります。
そして、長年に渡って争ってきた九州探題一色範氏(道猷)に追われて長門に落ちることになったのでした。
正平の一統が破談すると、直冬は形成挽回のために南朝と手を結びます。
直冬を支えてきた少弐氏にとっても、南朝側の菊池氏・阿蘇氏と連合して一色範氏を圧倒する機会を得ることができるのです。
諸国に目を向けると、越中の桃井、越前の斯波、伊勢の石塔、伯耆の山名らの旧直義派の守護は、直冬を盟主として仰ぎ、南朝と結ぶことで、尊氏・義詮に対して反撃の機会をうかがいます。
一方の南朝側も、自力で幕府を倒せないことを経験したことから、直冬勢との連合は願ってもいない話だったのです。
こうして、幕府・南朝・直冬派の三者が三つ巴の争いを始めたのでした。
南朝、2回目の京都占領と尊氏の帰京・親房の死
1353年(文和二年)2月ごろから南朝軍と直冬勢の動きが活発になります。
1351年(観応2年)2月に高師直・師泰兄弟が滅んで2年、1352年(観応3年)2月に足利直義が滅んで1年しか経っておらず、同年閏2月に南朝軍が1カ月ほど京都を占拠し、幕府軍と激しい戦闘を繰り広げた八幡の戦いからは1年も経っていません。
1353年(文和二年)6月、楠木・石塔・吉良勢が西から、山名勢が北から京都に突入します。6日に後光厳天皇が比叡山に逃れました。義詮が防戦するも支えきれず、9日には後光厳天皇を奉じて美濃の小島に逃れます。このとき、近江堅田・和邇の土民が蜂起して義詮の軍勢をさえぎり、佐々木道誉の子秀綱が討たれました。
京都を占領した南朝は、後光厳天皇に随行した公家の屋敷を没収し、その一族を処罰します。後光厳天皇即位の儀式に出仕した公家を解任するなど、北朝の公家に強い衝撃を与える内容でした。
美濃で態勢を整えた幕府軍は、同年7月に京都を奪回し、南朝軍は撤収します。義詮が敗走して帰京するまで1カ月半の出来事でした。
南朝側の2度目の京都奪還戦に参加したのは楠木らの南朝本軍と、南朝に帰順した直冬を盟主とあおぐ旧直義派です。この両軍の間に緊密な連携はなく、直冬方の山名時氏にあっては、直冬の命令に従うと公言するものの、南朝の命令は無視するありさまでした。
このように、連携もおぼつかない事情によって、南朝軍は1カ月半程度しか京都を占領することはできませんでした。
さらに、同年9月になって鎌倉にいた尊氏が大軍を率いて帰京します。2年ぶりの凱旋でした。
1354年(文和三年)4月17日、南朝の総帥北畠親房が没します。享年62歳。親房の死によって南朝は衰退していくことになります。
南朝、3回目の京都占領
1354年(文和三年)5月、直冬は当時の根拠地としていた石見を発って軍勢を京都に向けます。山名時氏もこれに応じて軍勢を動かします。山陰・山陽の各地で直冬・山名勢と幕府軍の戦いが始まりました。
12月下旬、西から直冬・山名勢、北陸から桃井・斯波勢が京都に迫ります。尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺(滋賀県近江八幡市)に逃れました。
1355年(文和四年)1月、桃井・斯波勢が入京し、そのあと直冬・山名勢が入京します。
義詮は、前年10月に直冬・山名勢討伐のため播磨に出陣していましたが、これは直冬勢を京都に誘い入れて、尊氏と東西から挟み撃ちする作戦だったと言われています。
近江・播磨からそれぞれ兵を返した尊氏・義詮軍に赤松・佐々木勢が加わって、入京した直冬軍と京都近郊で激戦を繰り広げます。1カ月半の戦闘で京都はほとんど灰燼に帰し、直冬は京都を去りました。
直冬が敗北した理由は、山陽・山陰・北国からの兵粮補給路を幕府方に抑えられたことが直接の要因とされています。
さらに、直冬には父尊氏を討つ後ろめたさがあり、直冬の父に対する弱気な心理を機敏に感じ取った諸将たちが「直冬に従っている限り勝つことは出来ない」と悟ったからとも言わています。
守護の横暴
幕府・南朝・直冬の三つ巴の戦いは終わりを告げ、勝敗の帰趨は決しました。
しかし、南朝や直冬によって、三度も幕府の拠点である京都を奪われたことで、新しい問題が発生します。将軍の権威が失墜し、一部の守護が将軍の権威を軽んじるようになったのでした。
確かに、1353年(文和二年)・1355年(文和四年)に関しては、尊氏は鎌倉にいましたから、京都を奪われた直接的な責任はないかもしれません。しかし、尊氏は幕府の将軍であり、対外的には義詮と一体だったことから、幕府が三度も京都を追われたことに対する非難が向けられても不思議ではありません。
一方、京都を再三奪回できたのは守護の軍事力に拠るところが大きく、権威を無視するバサラな精神もあいまって、守護たちの驕りは目に余るようになったのです。室町時代の守護の権限が、鎌倉時代の守護の権限より大きくなったこともあげられるでしょう。
その守護の代表が、近江北半の守護佐々木道誉、美濃の守護土岐頼康、伊賀・伊勢の守護仁木義長、播磨の守護赤松則祐、若狭の守護で阿波に勢力をもつ細川清氏でした。
しかし、彼らは情勢を見て寝返りを重ねたり、常に尊氏・義詮に敵対してきた守護とはちがって、常に畿内周辺で南朝勢と戦い、将軍・幕府を守り続けてきた守護たちでもあったのです。確かに、彼らも時々寝返っていますが、肝心なときは尊氏・義詮を守っています。
尊氏や義詮が守護たちを厳しく処断できない理由がここにありました。
京都に平和が戻って1カ月もたたない1355年(文和四年)4月、仁木義長と細川清氏が京都市中で合戦寸前の状況まで緊張を高め、尊氏は細川清氏のもとへ、義詮は仁木義長のもとへ直々に出かけて二人をなだめる事件がおこります。
事件の発端は、清氏のもっている西洞院三条の敷地に義長が勝手に屋敷を建て始めたからで、家来が将軍のお膝元で「私闘」の合戦やろうとし、それを将軍がなだめないといけない状況でした。
1356年(延文元年)4月末には、細川頼之(のちに幼少の義満に代わって管領として幕政を主導します)は将軍に食ってかかります。当時、阿波の守護だった頼之は、安芸に陣をしいていた直冬の討伐を命じられます。
頼之は、「出陣命令は確かにお受けしますが、直冬を駆逐したら彼らの所領は自由に配下の兵に恩賞として与えたい」と命令の承諾に条件をつけました。
敵方の所領に限らず、没収地の処分権は将軍の専権です。もし、将軍が頼之の条件を認めると将軍権力を自ら否定することになります。
頼之は、幕府が返事を渋っているのをみて、本国に戻ると称して勝手に京都を発ちました。細川清氏が追いかけて、さんざんなだめすかして、やっと京都に連れ戻しています。
翌1357年(延文二年)6月、今度は本当に守護が無断で帰国する事件が起きます。頼之の従兄弟で、頼之を連れ戻した若狭守護の清氏が、隣りの越前守護職も欲しいと幕府に申し出ました。幕府がこれを拒否すると、憤慨して阿波に帰ってしまいます。このときも幕府は連れ戻そうと使者を立てたようですが失敗しています。
将軍・幕府が、力をつけてきた守護をどうコントロールしていくのか?平和の兆しが見えてきた室町幕府の新しい課題となったのです。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
亀田俊和『観応の擾乱』中公新書。
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