持明院・大覚寺統の荘園をめぐる仁義なき争いと文保の和談

朝廷
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持明院統と大覚寺統に完全に分裂し対立した天皇家は、収拾がつかなくなります。幕府もこの対立に巻き込まれますが、一貫して両統迭立の原則を固執します。この状況を打破しようとしたのが、後醍醐天皇です。

 

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室町院領の折半

1298年(永仁六年)7月、持明院統の後伏見天皇が即位して、伏見上皇の院政となっても、大覚寺統と持明院統の幕府に対する裏工作は苛烈を極めます。

落ち目の大覚寺統に同情しがちになった幕府は、後宇多院の皇子邦治親王を皇太子にする方針を打ち出し、8月に実現させます。これによって、明確に「両統迭立」になりました。

 

八条院・長講堂・室町院領の流れ

 

1301年(正安三年)1月、邦治親王は即位して(後二条天皇)、大覚寺統の惣領後宇多上皇の院政が始まります。

この前後、荘園の伝領をめぐって両統が激しく対立します。

 

 

これより約80年前の1223年(貞応二年)ごろ、後高倉院は八条院領を安嘉門院に譲りましたが、後高倉院にはこの八条院領のほかに、少なくとも80ヵ所以上の荘園を有していました。この荘園群も、同じころに皇女式乾門院利子に譲与され、そのまま式乾門院が有してきました。

寛元・宝治のころ(1243~1248年)、後嵯峨院の第一子に中書王という皇子がいました。母の出身が高貴ではなかったことから、後嵯峨院の中宮大宮院が生んだ後深草・亀山に比べて冷遇されたため、それに同情した式乾門院が猶子として中書王に後高倉院の遺領の継承者に予定していました。

中書王はやがて親王宣下があり、宗尊親王と称します。そして、鎌倉幕府6代将軍として鎌倉に下向しました。

式乾門院は55歳で没しますが、その2年前に後高倉院からの遺領すべてを姪の室町院疇子(ちゅうし)に一期分(一代限り)として譲り、室町院の死後は宗尊親王に譲るように定めていました

ところが、宗尊親王は室町院よりも先に1274年(文永十一年)に32歳で没し、室町院の死後は誰に譲るのか決めないまま1300年(正安二年)5月、室町院は没します。後二条天皇即位の半年前の出来事でした。

持明院統・大覚寺統による幕府への裏工作が激化している中で、室町院領がどちらの皇統に落ち着くのかは人々の注目するところで、幕府は大いに苦慮します。

 

八条院・長講堂・室町院領の流れ

そして、後二条天皇が即位したころ、室町院のあとは宗尊親王へという式乾門院の遺志を考慮して、宗尊親王の娘の土御門瑞子(つちみかどずいし)に室町院領が伝領されます。

ところが、翌年の1302年(乾元元年)1月、親王宣下も叙位もなかった土御門瑞子に突如として准三宮の宣下があり、同時に永嘉門院という女院号が与えられ、さらに後宇多上皇の妃にされてしまったのです。荘園が目当てであることはだれの目から見ても明らかですが、永嘉門院は入内後もたいへん丁重に扱われたそうです。

当然、持明院統は幕府に異議申し立てを行います。伏見上皇の主張は、式乾門院の宗尊親王への譲渡はすでに破棄されたものなので、永嘉門院に伝領されるべきではないというものでした。

幕府は妥協案を出します。室町院領を折半して大覚寺統・持明院統それぞれ半分に伝領するという案で、両統もそれに納得しました。

大覚寺統に伝わった室町院領の半分は、永嘉門院の手をはなれて亀山法皇の管理下にありました。1305年(嘉元三年)9月、法皇が崩じると、法皇の処分状によって八条院領・室町院領などその莫大な遺領は皇子・后妃らに配分されましたが、主要な部分が恒明親王に譲られました。晩年の法皇は、この親王を溺愛し将来皇位につけようと考えていたと言われています。

しかし、法皇の没後、後宇多上皇は恒明親王を皇太子にする件を握りつぶし、昭慶門院憙子(きし)へ伝領させます。

持明院統でも、長講堂領は伏見から後伏見へ、室町院領は伏見から花園へ伝えられます。

分裂につぐ分裂

室町院領をめぐる両統の対立が収束すると、続いての対立は後二条天皇の皇太子をどうするかでした。なぜなら、皇太子をどちらの皇統から出すかで勝負がついてしまうからです。

両統迭立の方針からいえば、次は持明院統から皇太子を出すことになりますが、後伏見上皇はまだ14歳だったので皇子がいませんでした。

再び、両統の幕府への裏工作がはじまりましたが、幕府は弟の富仁親王(のちの花園天皇)を立てる方針を選びます。しかし、兄弟を立てると、また分裂の原因になります(後深草と亀山のように)。持明院統の惣領伏見上皇は、それを憂慮して、富仁親王を後伏見天皇の猶子ということにして、後伏見上皇に将来皇子が生まれれば、その皇子へあとを譲るものと決めました。

7年後の1308年(徳治三年)8月、後二条天皇が若年で崩御し、持明院統の富仁親王が即位します(花園天皇)。ふたたび持明院統の惣領伏見上皇の院政になります。しかし、再び皇太子を決めなければなりません。

両統迭立

大覚寺統から皇太子を出すことになりますが、大覚寺統の惣領後宇多法皇は、後二条天皇の皇子邦良親王が幼年で病弱だったことから尊治親王を皇太子後二条天皇の弟尊治親王(のちの後醍醐天皇)を立てます。

後宇多法皇は、尊治親王の立太子の直前、すべての荘園群を尊治親王に譲りますが、尊治親王が没したのちは邦良親王に譲り、皇位も邦良親王とその子孫に伝えるとしました。

尊治親王の子孫は優秀な者がいれば親王として天皇を助け、よほどの人望があれば「皇祖のおはからい」に任せるべきとたのですが、このことは後醍醐天皇に知らされていなかったようで、それを知った後醍醐天皇は両統迭立の破壊に執念を燃やすようになったと言われています。

両統の惣領である伏見・後宇多上皇は、二統に分裂した要因が兄弟によって引き起こされたのであれば、今後も兄弟によって同じことが引き起こされ四統にも五統にも分裂することを理解していたのでしょう。

摂関家は、これより以前に二家にわかれ、さらに五家に分れていました(五摂家)。この五摂家は「分家」ではなく、対立の結果できた家なのです。

両統迭立の時代に摂関家を凌ぐ権勢を誇った西園寺家も、公経のあとの実氏の西園寺家と洞院家に分裂したのでした。

かれらは、両統に対して抜け目なく女子を入内させて両統の動きを把握し、治天の君が替わるたびに露骨に権勢の側に移る者もいれば、その統に自身の運命を賭ける者もいました。一方が大覚寺統につけば、一方が持明院統につくという、一族内の争いも繰り広げられました。

文保の和談

尊治親王は皇太子になると、早く即位できるように幕府に働きかけを強めます。幕府も嫌気がさしたのかわかりませんが、花園天皇の在位が9年ほど過ぎた1317年(文保元年)4月、鎌倉幕府は、両統がいつまでも皇太子の裏工作で勢力争いを続けるのではなく、立太子のルールを作るように朝廷に提案します。

その後、大覚寺統の惣領の後宇多院と持明院統の惣領伏見院の間で何度も協議するも話はまとまりません。

結局、幕府は両統迭立を軸とした皇位継承の原則を提案します。

  1. 花園天皇が譲位し、皇太子尊治親王が即位すること。
  2. 今後、在位年数を10年とし、両統交替すること。
  3. 次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見上皇の皇子量仁親王とすること。

しかし、第三の条件は大いにもめたそうです。持明院統にとっては、大覚寺統が尊治-邦良と二代続くことになるので認められず、さらに両統ともに二統にわかれて、つまり合計四統でたらいまわしすることになるからです。

 

両統迭立

 

結局、三点目はうやむやになった状態で、1318年(文保二年)2月に花園天皇は譲位し、尊治親王こと後醍醐天皇が即位します。当時としては、異例の31歳での即位でした。

それでも、はじめのうちは後宇多法皇の院政が行われていました。

4年近くたった1321年(元亨元年)の暮れ、後宇多法皇は院政をやめて、後醍醐天皇の親政にしたい旨を幕府に伝えます。なぜ、後宇多院が後醍醐天皇に治天の座を譲ることになったのかは謎のままです。後宇多院が密教にハマったためとも言われています。

後嵯峨院が崩御して50年間、両統は万人の知らぬところで抗争を続けていたのですが、後醍醐天皇になってこの争いは万人に影響を与えることになります。

 

 

 

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