南北朝時代は、戦い方や刀・鎧などが大きく変化した時代だった

室町時代
スポンサーリンク

悲しいかな、時代の変革期には必ずと言っていいほど戦いが起こりますが、それにともなって武器・武具が変化するといわれています。鉄砲が登場し、鎧が鉄に変わっていった戦国時代はわかりやすい典型例といえるでしょう。

鎌倉時代末期から南北朝時代もまた、武器・武具の大きな変革期でした。どのような変化があったのでしょうか?平安末期から鎌倉時代の前代と比較しながらみていきましょう。

スポンサーリンク

戦い方の変化

鎌倉武士の主な戦い方である騎射戦(馬に乗って弓を射る戦い)は、平安中期に発生した武士の戦闘法で、とくに広大な平野部がある関東で発生したと言われています。

ただし、律令の『軍防令』では諸国の兵士に騎射戦の技を求めていて、10世紀初頭に成立した『延喜式』でも、宮中警護の近衛の武官に「弓馬に便なる者」を求めています。

騎射戦は関東で発生した武士の戦闘方法ですが、律令制の求める戦い方の上に発展してきました。

弓は弓手(ゆんで:左手)に持ち、馬手(めて:右手)で矢を射かけることを原則とし、相手を弓手に受ける左側を射向けと称しました。

互いに馬上の場合は、相手の矢を避けながらすれ違いざまに矢を射合い、相手が歩立(かちだち)の場合は、追いかけながら追物射(おものい)に射ます。そして、最終的な決着は相手と取っ組み合い、腰刀で首をとったほうが勝ちとなります。

当然、太刀もありますが、それは矢を射尽くし乱戦となった場合の補助的なものでした。

 

 

 

騎射戦を主体とする戦い方に変化が生じたのは鎌倉時代末期ごろです。それまで主流でなかった打物(刀剣や薙刀)が武器の主流となってきます。打物主体の戦闘法は、前代では主に僧兵や徒士のもので、騎馬に乗る武将のものではありませんでした。

しかし、この時代になると、合戦が長期化し規模が拡大したことによって集団戦が増加していきます。

また、楠木正成に代表される新興勢力の台頭とともに、戦闘が平地だけでなく山岳や湿地など場所を選ばなくなったことによって、戦法に変化が生じてきたのです。

鎌倉時代中期以降、主に畿内周辺の悪党などの武力集団の活動は、戦法の変化をもたらしていきました。彼らの主体は徒士武者で、複雑な地形でのゲリラ戦法や古来の戦闘ルールを無視した奇襲・待ち伏せなどを得意としました。

 

 

悪党らの武装集団の登場によって、僧兵・徒士などが使用していた打物が重要性を増していきます。それにともなって騎馬武者も騎射主体ではなく、馬上で打物主体の戦闘を行うようになりました。

これに対して、弓箭は徒士のものになっていきます。歩射が主体となり、弓は騎馬武者から徒士武者の武器へ、打物は徒士武者から騎馬武者の武器に変わっていました。

『太平記』では、「馬強なる打物の達者」などと称され、ほとんどの騎馬武者の戦闘描写が打物になり、いでたちも弓箭が減って打物中心の描写となります。弓勢の描写は歩射が多くなり、騎馬武者も馬をおりて射るようになります。

打物の変化

打物の中心は刀剣ですが、南北朝時代の刀剣は前代に比べて長くなっていきます。

『平家物語』などでは、3尺5寸(約106センチ)が大太刀の基準でした。『太平記』では、4尺から6尺(約120センチ~180センチ)くらいまで長くなります。

太刀の他に、この時代を特徴づける打物としては金砕棒(かなさいぼう:鬼のこん棒のような棒)や鉞(まさかり:斧)があります。

これらの武器は、鎧兜を貫通するような鋭利さはありませんが、馬を打撃して脚を折るなどして、騎馬武者を落馬させ戦闘能力を奪う力がありました。

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけては馬を狙うのは卑怯とされていましたが、南北朝時代には当たり前になっていたようです。

そして、画期的だったのが槍の登場です。槍は刀剣と棒とを折衷した武器ですが、集団歩兵戦に使用されるようになるのは戦国時代に入ってからです。

弓箭

日本の弓は木弓です。『延喜式』などには、檀・槻・梓などの弓材が指定されていて、これらの木の幹の皮をはぎ、漆を塗った丸木弓が主流でした。

この弓は弾力が小さく、引き絞ることができなかったので、威力を増すために大きくなり、7尺5寸(約227センチ)前後ありました。また、弓を握る部分は木の弾力を考慮して、中央より下にあります。この弓は遠距離よりも至近距離を射るのに適していて、目標にできるだけ近づくために、馬を使用します。必然的に騎射戦になるわけですね。

また、引き絞ることができないかわりに、馬上での矢継ぎ早の連射には適していました。

平安末期ごろになると、威力増大のために弓腹に竹をあわせた伏竹弓が出現します。合わせ目の補強と装飾を兼ねた籐巻(とうまき)の弓が盛んに用いられるようになります。そして、木を竹で挟んだ三枚打が出現し、さらに威力が増して飛距離が伸び、徐々に弓を引き絞るようになって騎射よりも歩射で狙いすまして射るようになりました。

南北朝時代の頃は、この三枚打が主流だったと言われているので、威力が増した矢をいかに防ぐか?が重要になってきます。

甲冑

源平合戦や鎌倉武士に見られる大鎧は、袖開きの胴と四間の草摺が騎射に適していました。逆に重すぎたことから、必然的に馬に乗るようになります。

南北朝時代になると、胴裾が狭まって体に密着し、鎧を構成する最小単位の札(さね)が小さくなって軽快になります。打物や徒歩に適した構造に変化してきたのです。

兜は小さな鉢にてっぺんには大きな穴が開き、葺下ろしのシコロ(鉢の後方・左右に垂れて首を保護するもの)のものから、鉢は大きくてっぺんの穴は小さくなり、笠上に大きく開いた笠シコロになり、腕の運動に適した形態に変わります。打物に適していたことから、徒士武者での使用も増加しました。

また、それまでの一部の武将に限られて使用されていた鍬形等の前立ての使用も一般化します。

大鎧は、徐々に祭礼などで使用されて形式化し、代わって腹巻(=胴丸)に袖と兜という格好に変わっていきました。

打物が重視されるようになると、腕・脚・顔面などを負傷する確率が高くなったことから、籠手(こて)、脛当、膝鎧・頬当などの小具足が充足してきますが、それも南北朝時代の頃からです。

 

このように、鎌倉末期から南北朝時代にかけて、武士たちの戦闘方法や武器は大きく変化していきました。鎌倉時代の鎧兜と戦国時代の鎧兜の間にあったのが、この時代の鎧兜といえるでしょう。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました