大名化する守護と国人一揆を解説~変動する室町期の武家社会

室町時代
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南北朝の内乱は、足利尊氏・直義兄弟の対立を中心とした幕府中枢部の分裂、すなわち1350年(観応元年)に始まる観応の擾乱によって、複雑になり激化します。

内乱の深刻化は、幕府や守護といった社会の上層部だけでなく、在地領主や農民などを巻き込んで様々な影響を与えていきました。武士も農民も自らの権利や立場などを守り、さらに拡大・強化しようとする動きが活発になって、様々な変化や時代を特徴づける現象が現れてきます。

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変動する武家社会

武家社会では、所領の相続形態が、それまでの庶子分割相続から惣領単独相続へと移行し始めます。庶子とは分家で、惣領は本家のようなイメージです。

平安時代後期から続いてきた武士団は、所領が一カ所に集中せず、各地に分散する傾向にありましたが、1221年(承久三年)の承久の乱以後、新補地頭として本貫の地(本拠地)を東国に持ちながら、西国にも所領をもつ武士が増加します。

 

 

こうした飛び地の所領には庶子を下向させ、また一つの領地を分割して庶子に与えました。庶子は、それぞれある程度の独立性をもちながら、「いざ」という時は、惣領を中心とする武士団として結集していました。

しかし、分割相続を続けていると、新しい所領が手に入らない限り、所領は先細りしていくことになります。また、出陣した際に留守の所領を侵略されるケースもありました

このような相続や所領に関する問題は、元寇以降に現われはじめて、鎌倉幕府倒幕を経て南北朝時代に突入するとさらに顕著になります。

 

そこで、各地に分散していた所領のうち、条件の悪いものを放棄して、良い所領へ一家が集中するようになって、親が指名した家督(惣領、器量の仁)による単独相続へと移行していきます。

これによって、惣領権が強化され、惣領職という概念も生まれてきて、惣領家による庶子家の被官(家来)化がすすみます。一方で、有力庶子家(たとえば、足利一門の細川や斯波、畠山など)は惣領家から独立し、独自の惣領家を形成していきます。

大名化する守護

一方、諸国の守護は、国内の南朝方などの敵対勢力を打倒するために、任国の軍事的組織の確立に注力します。そのため、本来の権限である大犯三箇条(大番催促・謀叛人の追補・殺害人の検断)だけでなく、在地支配に関わるようになります。

幕府権力を背景に、在地領主の所領規模の調査や守護に服従した者への恩賞を通じて在地領主の被官化をはかり、任国の領国化を目指すようになります。守護の大名化です。

 

 

国人一揆の形成

こうした社会変動の影響を最も受けたのが国人領主といわれる人たちです。国人領主とは、かつて鎌倉時代に、幕府の地頭や公家・寺社の荘官、国衙(国司の役所)の役人だった在地領主のことです。

こうした在地領主たちは、将軍・守護の圧迫から独立性を保ちながら、領民に対する支配を強化するために、一味同心・相互協力することを誓約した地域連合を形成しましたが、このことを「一揆(国人一揆)」と呼びます。

一揆は一般的には「同一行動をとる」という意味ですが、ここでの一揆は、中小の在地領主たちが自らの所領と権利を守るために、相互に結ばれた同盟関係のことで、この時代特有のものです。

なお、白旗一揆・桔梗一揆のように、一揆の名称には「旗印」をからとられたものが多いのが特徴です。

一揆は、契約内容とそれに背かないことを神に誓った神文を記した一揆契諾状(契状)に、在地領主層が署名と花押(サイン)をすることによって成立します。

一揆の構成員は、多くは地縁によって結ばれた在地領主層ですが、血縁者を中核に置く者が多く、血縁者のみの一族一揆のケースもあったようです。党(小武士団の集合)内部の一揆である党一揆もあります。

その目的は、多くは幕府や守護などへの対応です。忠誠を誓う場合もあれば、抵抗する場合もあり、新守護の入部に反対して一揆が成立することもありました。逆に、守護の働きかけによって一揆が成立することもあって、その場合の一揆は軍役・諸公事などが賦課され、守護の軍事的・政治的基盤となりました。

契約内容としては、構成員間の相互協力や紛争の処理などについての規定、農民や下人などの逃散処理規定、構成員の農民や下人が他の構成員の所領に逃散した場合、無条件で本主(もとの構成員)に返すという人返しの規定もありました。

そして、こうした形成の国人一揆が全国各地でいっせいに成立していったのでした。観応の擾乱以後、急激に増えて内乱の動向に大きく影響を与えるようになっていました。

一揆の例

守護に加勢した国人一揆

守護の働きかけによって成立し、軍事的基盤となった一揆としては、播磨守護の赤松氏と赤旗一揆、豊後守護の大友氏と角違(かどたがい)一揆、下野守護の宇都宮氏と紀清(きせい:紀氏と清原氏)一揆、美濃守護の土岐氏と桔梗一揆などがあります。

桔梗一揆は土岐氏によって編成された美濃の小領主層の一揆ですが、これらの一揆は守護に従い、各地を転戦して軍功をあげています。

観応の擾乱においては、高師直・師泰に属した白旗一揆・大旗一揆・小旗一揆、直義方として挙兵した三河国額田郡一揆、備後の山内首藤一揆や、南朝との戦いで佐々木道誉に属した黄旗一揆があります。

 

さらに、上野・北武蔵にあって、観応の擾乱の武蔵野合戦で直義方として挙兵し、正長年間(1428年~1429年)までの80年間にわたって組織を保った白旗一揆は武蔵七党の流れを引き、鎌倉公方や関東管領上杉氏の働きかけによって成立したと考えられています。

守護に抵抗した国人一揆

これに対して新守護の入部に抵抗した一揆としては、信濃の国人一揆、安芸の国人一揆が知られています。

信濃の国人一揆は、1400年(応永七年)に新守護として信濃に下向した小笠原長秀に対抗したもので、国人領主の所領否認などをきっかけに、信濃全域の国人領主が、かつて直義方として活躍した大文字一揆を中心に結集し、大塔合戦とよばれる国内戦の末に、守護を京都に追い返しています。

安芸の国人一揆は、安芸の新守護山名満氏に抵抗したものです。1403年(応永十年)に入部した山名満氏でしたが、国人衆はこれに反対して合戦になっていました。翌年6月、幕府は満氏に秋の国人衆の所領確認と証拠文書の提出を命じました。これに対して、9月に高田郡(広島県安芸高田市)を中心とする国内のほとんどの国人領主33人が反守護の一揆を形成しました。

その一揆契状の内容は、①守護による本領没収の反対、②国役(=一国全体への臨時課役)は談合で決定、③守護の強硬手段には弓矢にかけて抵抗、④一揆構成員間の紛争は談合により解決、⑤将軍への忠誠、の5カ条でした。

この一揆は、3年にわたって守護と武力衝突を繰り返し、1406年(応永十三年)になってついに満氏は罷免されたのでした。

領民を弾圧した一揆

支配下の領民の抵抗を弾圧した一揆としては、1355年(文和四年)に成立した紀伊の隅田党の一揆が知られていますが、特に有名なのは、1384年(永徳四年)・1388年(嘉慶二年)・1392年(明徳三年)の三度にわたった肥後の松浦党の一揆です。

この一揆は、契状の中に逃散農民および下人は本主に返還するという人返しの規定を定めています。裏をかえせば、農民および下人の逃散は在地領主の対立を引き起こす要因だったことがわかります。あらかじめルールを作っておけば、対立しなくてすむということです。

なお、松浦党の一揆の契状には、松浦党諸族46人がくじで順序を決めて署名しています。これは、署名者の間に上下はなく、いずれも平等に一致団結するという意味ですが、松浦党に限らず互いに平等な立場で協力し合おうとする傾向が国人一揆にはありました

 

むすび

鎌倉幕府の地頭は、主である鎌倉幕府が滅亡すると、自らの力で所領を守る必要性に迫られました。主を失った地頭たちは、同じく主の力が弱まった公家・寺社などの荘官(下司・田所)・国衙領の役人たちと連携して一揆を形成していったのです。

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