南北朝の動乱が「起こった理由」と「長引いた理由」を簡単に解説

足利尊氏の時代
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南北朝時代は、1336年(建武三年)に足利尊氏が建武政権に叛いて光厳上皇を担いで光明天皇を擁立し(北朝)、後醍醐天皇が吉野に逃れて(南朝)対立したことに始まります。

この対立は、名目上は朝廷同士の戦いだったので、色んな勢力が入り乱れて展開します。その結果、ややこしくなってしまうのですが、このややこしい時代を理解するには、鎌倉幕府滅亡にいたった元弘の乱(1331年~1333年)・建武の親政から「流れ」を見ると理解しやすいのではないか?と思うのです。

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南北朝の動乱はなぜ起こったのか?

元弘の乱

元弘の乱は、後醍醐天皇を中心とした一部の公家による倒幕運動がきっかけで始まり、それに全国の武士の不満が結びついて爆発し、倒幕に至った戦乱です。

畿内周辺では、「悪党」と呼ばれる誰にも属さない武装集団が、荘園への年貢の不払い運動を経て、次第に組織的に幕府に抵抗するようになりました。

 

 

また当時の鎌倉幕府は、長崎氏を中心とする御内人と呼ばれる北条氏の被官(家臣)に牛耳られていて、中小御家人は窮乏していました。また、足利氏のような有力御家人たちも幕政から疎外されていて、御家人たちは不満を募らせていきます。

 

 

頼朝の築いた幕府は、鎌倉末期には御家人のものでも北条氏のものでもなく、北条氏の家臣のものになっていたのです。

そんな鎌倉幕府を、後醍醐天皇が朝敵として名指しして立ち上がると、悪党の反抗や御家人たちの不平不満があっという間に爆発しましす。
畿内周辺の反幕府勢力を結集して、六波羅探題を相手に戦ったのは護良親王や楠木正成、赤松円心たちでした。
そして、関東の御家人を率いて六波羅探題を滅ぼしたのが足利高氏(尊氏)で、東国の御家人を率いて鎌倉幕府を滅ぼしたのが新田義貞です。

 

建武の新政

鎌倉幕府と北条氏は滅び、建武の新政が始まりますが、この建武政権は、はじめから矛盾や葛藤をはらんでいました。

天皇親政・公家一統の政治をうたいながら、親政の中枢機関の記録所と訴訟審理機関の雑訴決断所の権限関係が複雑になっていて、本領安堵や恩賞を求める武士たちを混乱に陥れました。

 

 

一方で、天皇に近い公家・僧侶などがいち早く恩賞にあずかるなど、武士たちの不満が高まりました。

地方統治では、国司と守護を並置しましたが、守護の権限が低く抑えられたことから、有力武士の不満も高まることになります。

 

 

結局、現実離れした公家一統の政治は、武士たちの不満を解消するどころか、逆に増幅させるものでした。

尊氏も、建武政権の中枢には入れず、諸国から上洛する武士を次々と配下におさめて軍事力を高め、尊氏に敵対した護良親王を失脚させて、弟足利直義のいる鎌倉で幽閉してしまいます。

 

 

そうした中で、親政開始後のわずか半年で奥州から九州にいたる各地で北条残党による反乱が起こり、1335年(建武二年)に中先代の乱が起こります。

 

 

尊氏は、建武政権に不満をもつ武士たちを従えて鎌倉に下向し、中先代の乱を鎮圧。そして、鎌倉で建武政権から離脱しました。
ここで、尊氏方に従った者が北朝につき、後醍醐方に従った者が南朝に従う構図が出来上がったのです。

これだけなら南北朝時代は簡単なのですが、ここから南北が入り乱れてしまってややこしくなります。一応、建武政権派が南朝で反建武政権派が北朝(幕府)が基本的な構図です。

南北朝の動乱はなぜ長期化したのか?

南北朝時代の幕開け

尊氏は建武政権を倒すと、持明院統の光明天皇を擁立して(北朝)、足利政権の正当性を獲得します。尊氏は、天皇家の分裂を利用して自身の正当性を主張したのでした。

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そして、早速『建武式目』を制定して、政所・侍所などの幕府の機関を設置していきます。尊氏は、北条義時・泰時時代の幕府を再興しようとしました。

 

 

一方の後醍醐天皇は吉野に逃れて、反足利の号令を全国に命令します(南朝)。

 

 

全国的に繰り広げられた両軍の戦闘は、足利方の優勢で進みます。南朝軍は日に日に劣勢になっていきました。

1337年(建武四年)には南朝方の越前金ケ崎城が落ち、翌年には奥州から和泉まで攻め寄せた北畠顕家が戦死、越前では新田義貞が討ち死。そして、1339年(暦応二年)8月、後醍醐天皇は崩御します。

 

 

後醍醐天皇が没したのちの約10年間は畿内周辺では大きな戦もなく、尊氏の弟直義の主導によって幕府の基礎固めが行われていきます。しかし、この間に幕府内では直義派と高師直派にわかれて亀裂が生じてきます。

 

 

1348年(貞和四年)、楠木正成の遺児正行が河内で挙兵し、高師直に敗れて討ち死します。師直は勢いに任せて、吉野に侵入して南朝方の御所を焼き払い、後村上天皇は賀名生に逃れる状況でした。
足利方は、南朝に対して圧倒的優位にたっていました。

 

 

しかし、南朝を降伏させることはできませんでした。むしろ、ここから40年以上も内乱が続きます。
なぜ、北朝は南朝を屈服させることができなかったのでしょうか?

北朝が南朝を屈服できなかった理由1

屈服できなかった理由の一つに、武士以外の諸勢力が南朝を支持していたことがあげられます。

鎌倉後期から後醍醐天皇に組織された貴族や有力寺社の存在があり、それらの傘下には神人・供御人・修験者(山伏)たちの活動がありました。彼らはネットワークを生かして北朝・幕府に関する豊富な情報を南朝にもたらしていました。情報戦に関しては南朝の方が上だったようです。

また、広域な経済活動を営む商工業者や漁民の多くは、朝廷や有力寺社の神人・供御人などとして活動していたので、幕府や守護の取締りを嫌って南朝方を支持する者が多くいました。

さらに、熊野や瀬戸内などの水軍や西国の山岳武士たちの多くは南朝を支持していましたが、彼らは、前代の鎌倉幕府から追討の対象となった「海賊・山賊」の系譜で、後醍醐天皇の倒幕運動に関わってきた歴史があります。

このように、大覚寺統の公家のみならず、寺社・商人・水軍など武家以外の勢力は南朝を支持する傾向にありました。ですから、新田義貞や北畠顕家のような主力の武将を失っても頑強に抵抗を続けることができたのは、かれらのような存在があったからです。

北朝が南朝を屈服できなかった理由2

第二の理由は、この時代の社会そのものの変化・動揺です。

鎌倉時代の御家人社会の基礎となっていたのは惣領制で、親の決めた嫡子が惣領となって庶子(嫡子以外の子。現代的に言えば分家)や女子の所領に一定権限をもっていました。
ところが、鎌倉末期には、惣領制が崩れ始め、相次ぐ戦乱は、その崩壊に拍車をかけます。一族内の争いは、裁判などの平和的手段では解決がつかず、一方が北朝につけば、他方が南朝につくというように分裂して戦うことで決着をはかろうとしました。
また、一族内だけでなく、中小の在地領主の地域内の紛争が、南北両軍に結びついて交戦に結びつきます。

また、農民の村落結合が起こったり、市場がたくさん開かれて商品・貨幣が出回り、中小武士が貧困層に落ちていくという社会全体の変動がありました。貧困層に落ちていく武士たちは、合戦によって恩賞を受けることによってしか生きる道はなかったのです。

 

北朝が南朝を屈服できなかった理由3

第三の理由は、1350年(観応元年)に勃発した「観応の擾乱」です。

この乱は、足利直義と高師直の対立から起こった幕府の内輪もめですが、全国の幕府方の武士たちを二分する争いとなり、直義や尊氏が南朝に降伏するなどして、南朝を巻き込んだ戦いに発展しました。

 

 

とにかく、この乱はメチャクチャです。極めつけは、南朝が京都を占拠して北朝の三上皇と皇太子を吉野に連れ去ったことで一時的に北朝が消滅し、室町幕府の存在理由が消滅する事態に発展するなど、危機的状況に陥っています。

 

 

やがて、幕府は京都を奪還して北朝を再建しますが、擾乱の影響は長く尾を引きます。尊氏に滅ぼされた直義派の武将の多くが南朝に帰順して、南朝軍の戦力となり、幕府を脅かします。

このように、南北朝時代が長引いたのは、後醍醐天皇が組織した諸勢力の活躍、この時代の大きな社会変動、幕府の分裂があったからです。

むすび

こうして長引いた内乱も、2代将軍義詮から3代将軍義満の頃になると、幕府の基礎は固まり、南朝に下って反抗を続けた武将たちも幕府に帰参していきます。
義満は、南北合一を実施して太政大臣となり、公家・武家に君臨する専制権力を築くにいたります。

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