中世は、ずばり荘園制に基づいて社会が営まれていたと言ってもっても過言ではないでしょう。
公家・寺家・武家の所領の話だけでなく、国家体制・身分・経済などの当時の社会を構成するすべてが荘園制の上に成り立っていたのです。
しかし、その荘園制は、律令制や幕藩体制のように明確に制度化されたものではありません。
社会の営みの中から出てきて、いつの間にか消え去っていったので、現代を生きる私たちのとって中々つかみ所がない曲者です。教科書でも時代ごとに区切っていることもあって、断片的にパラパラ出てくるので全体をつかみにくいのが現状ではないでしょうか?
ということで、今回は「荘園」がどういうものか全体をつかむことを目的として、荘園の特徴と歴史をざっくりご説明したいと思います。
荘園のイメージ
本格的に成立した荘園(院政の時代)は、規模の差はありますが、田畠・山野河海などの荘地と一定の住民がいました。逆を言うと、荘園制が完成する前は、田畠・山野河海・住民は含まれていません。荘園制が確立するまでは、私領であっても国の一定の支配を受けていたのです。
荘園の完成形は、現在の村に近いイメージです。大きな荘園になれば、村が集まって一つの荘園群を形成します。
荘園の住民
荘園の住民には、荘園を現地で管理する荘官・農民・その他の人々がいて、色んな生活が営まれていました。
住民の多くは農民ですが、海や湖がある荘園では漁業や製塩を営む人達もいましたし、山野のあるところでは、今にいう林業に従事する人もいました。
また、荘園での生活に欠かせない道具を作る人、たとえば番匠・鍛冶・紺染・皮革などの職人が住んでいました。寺社などもあって人々の信仰生活に溶け込んでいたのでした。
さらに、荘園成立の主体者となった開発領主やその権利を受け継ぐ現地支配層、地域の人々の生活を流通面から支える商人のような人もいました。
荘園は、領主と農民だけでなく、色んな人々が様々に関わり合って一つのコミュニティとなっていたのです。
荘園を支配した人たち
そんな庶民を支配していた人はどんな人か?というと、荘園領主といわれる本家・領家・預所職だった人たちです。貴族や寺社、上級武士がそれに当たります。
彼らは、主に京都や奈良に住んでいたので、現地の荘園支配は下司とよばれる荘官に任せていました。
荘園領主と言われる人たちは、朝廷や幕府のエラい人たちだったので、彼らの政治的基盤となります。荘園は否が応でもこれらの政治的影響を受けることになるのでした。
このように、荘園は住民たちの経済活動の基盤であり、荘園領主の政治的基盤でもあったことから、必然的に中世は荘園制が大きなキーワードになります。
荘園制の成長期
荘園制は冒頭で述べたように、律令制や幕藩体制のように明確に法律で制度化されたものではありません。フワーッと出てきて、ブワッと広がって、サーッと歴史から姿を消します。つまり、「生まれてから死ぬまで」のような変化が荘園にはありました。
荘園が最初に史料に登場するのは8世紀の後半ですが、荘地だけが存在して住民はいませんでした。浮浪人などを雇って開墾していました。
10世紀以降になると、荘地・住民をもつ荘園が登場してきますが、その広がりはゆっくりしたもので、さらに国司の影響を受けていました。国から独立した完全な荘園への過渡期と言えます。
そして、12世紀の鳥羽院政の時代になると状況は一変します。荘園が爆発的に生み出されていきます。ブーム到来。
各地で開発領主と言われる豪族が成長し、開発所領を院や摂関家に寄進するばかりでなく、彼らと結んで周辺の公領を荘園に取り込んでいきます。
荘園が全国的に広がるのはこの時期で、荘園化されなかった公領の性質も変わっていきます。
この時期、摂関家も天皇家も律令制から大きく性格を変えて、「家」「家領」の私的な経営者の側面を強めて、大荘園領主になっていきます。
中央の政治を動かす朝廷が、大荘園領主の人々によって構成されているのですから、荘園は制度として認められ、荘園制が政治・経済・社会の基盤として確立します。11世紀の後半から12世紀末のことで、院政時代のことになります。
したがって、藤原道長・頼通の摂関政治の黄金時代には、まだ荘園が本格的に展開していなかったことになります。
荘園制の安定期
12世紀末までに成立した荘園制は、鎌倉幕府の成立によって大きな影響を受けます。荘園内部に武家という新しい勢力が入り込んできます。
しかし、幕府は荘園制を否定していません。そもそも、鎌倉殿がこの時代最大の荘園領主だったことから、荘園制が安定した時代といえます。鎌倉幕府のあとの建武政権・初期室町幕府も荘園制を維持しようとします。
もちろん、よく知られるように従来の荘園領主と武家の争いは多発します。
荘園制の衰退期
しかし、14世紀の南北朝動乱の時代になると、農民の荘園領主に対する抵抗や、地域の武士たちによる荘園の侵略によって荘園制が動揺します。
ただし、すぐに瓦解してしまうわけではありません。南北朝時代を含む室町時代は、荘園領主側でも維持するための努力を進め、室町幕府も荘園維持策を取ります。
荘園制が急激に崩れることは、自らの経済基盤を揺るがすことになるからです。
荘園制の崩壊は、14世紀から15世紀にかけて請負代官制のもとでゆっくり進み、15世紀後半の応仁の乱によって一気に崩壊へとすすみます。
16世紀に全国に広がった、戦国大名による大名領国制は荘園制の息の根を止める政策だった言えます。
しかし、戦国大名の領国は地方経営にとどまっていたことから、山城・大和などの畿内周辺地域では、公家・寺社の荘園は残っていました。興福寺などは、大和の在地領主=国人たちを支配下に組み入れ、大和一国を両国化しています。
それに止めを刺したのは天下統一を果たした豊臣秀吉による太閤検地だったのです。
むすび
荘園のイメージと荘園制の段階を見てきましたが、いかがだったでしょうか?荘園制がどういったものかを理解することを優先しましたので、だいぶん端折っていますが、ご理解の一助となれば幸いです。
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