1362年(貞治元年)、将軍義詮は足利将軍家の次の家格にあった斯波氏を管領職に任命し、自身の将軍権威高揚と幕府の支配権強化をはかりました。その結果、幕府内外は安定の度を増し、ようやく平和が訪れるかと思われた矢先、幕府に再びゴタゴタが勃発します。
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貞治の政変
1366年(貞治五年)8月に入って、義詮の命を受けた近江守護の佐々木(六角)氏頼が兵を率いて入京しました。8日の夜には、義詮は在京の諸大名に対して斯波討伐の号令をかけ、将軍邸のある三条坊門に集結するように命じます。
そして、義詮は斯波高経に対して「急ぎ本国越前に下向せよ。さもなければ誅罰する」と命じる使者を送ります。
9日6時ごろ、高経は管領で三男の義将、侍所頭人で四男の義種、引付頭人で孫の義高と一族郎党を率いて、将軍邸に近い三条高倉の自邸に火を放って越前に下りました。
義詮は、地方の守護に対して「斯波の陰謀が発覚して討伐しようとしたところ逃げ帰った」と事件を伝えた上で、山名・佐々木・土岐・吉見(能登守護)ら越前近国の守護を討手として差し向けました。
貞治の政変が起こった理由
この斯波氏没落の事件について『太平記』は、越前国内の地頭御家人の所領にかける武家役の率について、1/50から1/20に引き上げたことから国人の怒りを買ったとか、佐々木道誉・赤松則祐らの守護と軋轢を引き起こし、彼らが結束して義詮に追放を迫ったと伝えています。
どんな軋轢だったのかというと、赤松則祐の場合は、将軍邸の造営費納入を遅延したことから所領が没収されます。佐々木道誉の場合は、五条橋の修理が遅れていたところ、斯波が自力で完成させたことから面目を失い、さらに武家役滞納を理由に摂津守護職を罷免され、摂津多田荘も没収されて政所料所(将軍直轄領)に編入されました。
赤松則祐や佐々木道誉に非があるように思えますが、斯波が管領になって以来の幕政に対する非難やうらみが、この事件をきっかけに爆発し追放に追い込んだようです。仁木義長や細川清氏のときのように単なる勢力争いではなかったのでした。
影の管領・斯波高経のとった政策は、将軍権力を強化するために幕府財政を安定化させることで、具体的には武家役の率の引き上げや、滞納者の所領を没収して幕府直轄領に編入することだったのです。赤松や佐々木が処罰を受けたのは、高経の政策に従わなかったからでした。
将軍権力の強化は、管領職の地位強化にもつながりましたので、高経は強引にこの政策を推し進めました。
興福寺の強訴
そして、斯波の失脚の止めになったのが興福寺の強訴でした。
斯波氏は越前守護になった当初から河口荘・坪江荘などの興福寺荘園をめぐって興福寺と対立関係にあって、かつて新田義貞討伐の軍費として、600町歩の河口荘に三千石の兵粮米をかけて、興福寺を怒らせて足利直義が仲裁に入ったこともありました。
この長年にわたる対立関係の下で、管領として強権的になった斯波氏が積極攻勢になったことから興福寺の抗議は激化したのです。
1364年(貞治三年)12月、斯波高経の弾劾と春日社の造替を求める興福寺の衆徒は、春日社の御神木を奉じて宇治平等院に神木を入れ、さらに京都に進んで12月29日の真夜中に六波羅にある長講堂に神木を鎮座させました。神人たちが交代で番をつとめて神木を守り、訴えが認められるまで退去しないと幕府と北朝に訴えます。
春日大社の造替の件はさっそく幕府の評定にかけられ、翌1365年(貞治四年)2月には、造替の棟別銭を集めるように、義詮から諸国の守護にあてて命令が出されました。
しかし、これだけで神木が戻るはずもありません。興福寺の狙いは斯波高経の弾劾で、高経に何らかの処分が下されるまでは引き下がれないとして、その後も居座り続けたのでした。
春日大社は藤原氏の氏神ですから、朝廷の多くを占める藤原氏の貴族たちの活動にも影響を与えたので、朝廷の儀式が停滞するようになります。
1366年(貞治五年)正月の節会に、藤原氏の貴族が出席せず、殿上淵酔の儀式も取りやめとなっています。
朝廷の停滞は、それを支える幕府に対する無言の圧力となっていました。
また、神木の鎮座は京都の人々に精神的な不安を駆りたてたようで、何かにとりつかれた子供の話や、幽霊の目撃談のような噂が絶えなかったといいます。
そして、1366年(貞治五年)8月9日の早朝になって、斯波一族は越前へと落ちることになったのです。将軍義詮も神木の影響を無視できず、やむを得ず斯波を幕府から追放したのでした。
1367年(貞治六年)7月に高経は死去。興福寺側は、高経が難病にかかって発狂して死んだと称して、春日社の神木の罰を受けたと触れ回ったといいます。
すべては将軍家のためだった?
斯波高経は、守護への負担増だけでなく、京都周辺の寺社本領を没収して武士の恩賞にあてたり、幕府の直轄領に編入するなど強圧的な政策を展開しました。南朝との戦いで義詮が京都を4度も奪われる事態になった要因の一つが、京都周辺に将軍直轄軍を養うだけの所領をもたなかったということもあって、寺社本領削減政策が行われたのです。
しかし、この斯波による寺社と守護への強圧的な政策は、一時的ですが寺社と守護の連合を生み出し、斯波追放に立ち上がらせたのでした。
なお、幕府を追われた大名は南朝に下るのがパターンでしたが、斯波は南朝には下っていません。義詮が高経に涙して越前に下るよう頼み込んだ話が『太平記』に記されていますが、出来レースだったのかもしれません。
政変のその後
斯波高経の失脚後、斯波氏の守護国だった越前・若狭・越中が没収されて、越前には6年前に兄の畠山国清と同時に幕府を追われた義深、若狭には10年前に九州制圧に失敗した九州探題一色範氏の次男範光、越中には1349年(貞和五年)以来、反尊氏・義詮の急先鋒だった桃井直常の弟直信が任命されました。
しかし、斯波高経が没すると、義将の帰参を許し、越中の守護職を義将に返しています。
政策面においては、斯波が寺社から奪い取った寺社領を返還する旨の寺社本所返付令が発することで、興福寺などの怒りをおさめる政策に転換しました。
義詮は、このように有力守護を抑制しながら、寺社からの信頼を取り戻して、幕府の安定性を高めることに成功します。
義詮は斯波氏を追放したのち一年以上も管領を置かず、将軍親裁を行いますが、1367年(貞治六年)11月26日に政務を10歳の義満に譲り、9月に上洛させていた細川頼之を管領に任命し義満を補佐させました。
そして、12月7日、義詮は38歳で没しました。死因は高血圧症だったらしく、有力守護のなかで将軍権力の確立に注力した心労がたたったのかもしれません。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文書。
佐藤進一『日本中世史論集』岩波書店。
山田邦明『日本中世5~室町の平和』吉川弘文館。
平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』星海社。
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