最後の得宗北条高時の遺児である時行(ときゆき)が起こした「中先代の乱」。先代「北条氏」、後代「足利氏」の間に起こったことから「中先代」と呼ばれます。この乱は、半世紀余りにわたる南北朝動乱のきっかけとなります。
今回は、南北朝時代の中で北条氏再興に奔走した時行の生涯を、中先代の乱以降から見てみましょう。
その前に、鎌倉幕府滅亡時の時行の状況を見ておきましょう。
鎌倉幕府滅亡時の時行
1333年(元弘三年)5月22日、父高時や北条一族・被官283人が東勝寺で自害して果てたとき、高時の2人の息子邦時(万寿丸)と亀寿丸は、高時の弟泰家のはからいで鎌倉を脱出しました。
泰家は、高時が執権の座を金沢貞顕に譲ったときに、鎌倉幕府内で騒動を起こした張本人ですが、分倍河原の戦いで幕府軍の総大将として新田義貞と激突しています。しかし、力尽きて鎌倉に退却し一族滅亡後も生き残って北条氏再興のために活動しました。
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>>>鎌倉幕府滅亡
脱出した高時の息子万寿丸邦時は、泰家が信頼して託した五大院宗繁に裏切られ、新田義貞の手によって斬られてしまいます。次男亀寿丸は、諏訪盛高に守られて無事鎌倉を脱出。信濃に落ち延びて、諏訪大社を中心として信濃の御内人たちが結成した神党の庇護下に入ります。そして、元服して相模次郎北条時行と名乗っていました。
南朝に下った時行
>>>中先代の乱
南北朝の動乱が続くなか、北条時行は、父高時の仇討と北条氏再興を目的に戦い続けますが、このとき、時行は鎌倉幕府を攻略した新田一族と組んで、足利氏に敵対しています。
というのも、直接鎌倉を攻撃し、高時と一門を死に追いやったのは新田義貞ですが、その義貞の行動は、岩松経家を通じて足利尊氏の指令に基づいて行われたものだったからで、このことは当時の誰の目から見ても明らかだったのでしょう。
無位無官の貧乏御家人の新田が独力で、東国御家人を糾合できるわけがありませんので、当然といえば当然です。
やがて、1337年(建武四年)7月、吉野にあった後醍醐天皇は、時行の各地における足利軍との戦いを大いに褒め称えました。時行は、後醍醐天皇に南朝帰順を請願してこれが認められます。こうして時行は、後醍醐天皇によって着せられた北条氏への朝敵の汚名を撤回させ、晴れて南朝方の一武将として足利軍と戦うことになったのです。
時行は執拗なまでに足利と敵対しますが、足利の裏切りの衝撃の大きさを伺い知ることができます。
北畠顕家に従う時行
その年の暮れ、南朝方は京都奪還を目的とした大作戦を実施します。
北陸道方面の新田義貞が北から京都に迫る一方で、8月に陸奥を出撃した北畠顕家が東海道から京都に迫ろうというものでした。鎌倉を突破して、猛烈なスピードで京都に迫る北畠軍10万の中に、時行の率いる北条軍1万も加わります。
1338年(暦応元年)1月28日、北畠軍の上洛を阻止するため、迎撃してきた足利方の高師冬・高師泰・土岐頼遠・細川頼之らの大軍との間で、美濃で青野ヶ原の合戦が行われます。足利軍は、前陣・後陣の二段階構えの布陣を敷きましたが、北畠軍によって前陣は突破されました。
このとき、不思議なことが起こります。勝ちに乗じて足利軍の後陣を撃破して京都に進撃すると思われた北畠軍が、突然、転じて南下し、伊勢に向かいます。
後陣を突破すれば、近江で新田軍と合流して京都奪還が可能になったにもかかわらず、なぜ伊勢に向かったのか?謎は明らかにされていませんが、いくつかの説があります。
新田義貞に戦功を奪われると考えた説、時行が北条氏の仇である新田義貞と合流を嫌った説、陸奥から4ヵ月余りの東上作戦で疲弊が極限に達したことから、北畠氏の任国である伊勢と南朝の拠点大和ルートで回復しようと考えた説があります。多分、疲れたのでしょう。
いずれにしても、北畠顕家が青野原の敵陣全面で方向転換したことは失敗でした。兵を整える機会を得た足利軍は、各地で北畠軍を撃破し、ついに5月22日、和泉石津の戦いで北畠軍を破って、顕家を討死にさせたのでした。
北畠親房に従う時行
さて、北条時行は今回もうまく逃れます。北畠の敗軍の兵を取りまとめた時行は、吉野の後醍醐天皇の前に現われ、拝謁しています。このとき、後醍醐天皇が時行にどのように振舞ったのかは明らかになっていません。
北畠顕家に続いて、越前でも新田義貞が戦死し、この頃から南朝軍は勢いを失っていきます。
1338年(暦応元年)9月初頭、南朝軍は劣勢挽回のために大作戦を展開します。東国の軍勢を糾合して再度京都に攻め上るというものでした。
伊勢大湊から南朝方の船団が出港し、義良親王を奉じた北畠顕信・結城宗広は陸奥、北畠親房・伊達行朝は常陸、宗良親王は遠江を目指します。その船団の中に、新田義貞の子義興と北条時行の姿がありました。
しかし、この船団は遠州灘を過ぎたあたりで暴風雨に襲われ、伊豆・相模・安房などの海岸に漂着します。いずれも足利方の勢力圏だったことから、その場で捕らわれたり斬られたりしました。
時行の手勢が乗った2隻は、9月13日に偶然にも鎌倉の近く江の島に漂着しましたが、時行の家臣関八郎左衛門が捕らえられ斬られました。
このとき、時行自身の船がどういう状況だったのか不明ですが、助かった時行はどこかの海岸に漂着して潜伏。しかし、北条再興の志は捨てなかったようです。
1339年(暦応二年)3月、かつて近江番場で自刃した北条仲時の遺児友時は、時行と通謀していたことが発覚して捕らえられ、鎌倉郊外の滝ノ口で斬られています。
翌年1340年(暦応三年)6月24日、突然信濃の伊那谷に姿を現した時行は、諏訪頼嗣ら旧臣を糾合して大徳王子城で挙兵しました。
翌々日、すぐに駆けつけてきた信濃守護小笠原貞宗の大軍に包囲され、時行の籠城戦が始まります。大きな合戦も数十回行われたそうですが、4ヵ月以上の籠城戦の末、大徳王子城は落城しました。敗れた時行は、またもや潜伏を余儀なくされました。
それから10年間、時行の姿は史料上現れませんが、越後や安芸で北条残党が動きを活発化させていたようです。
この間、南朝軍の弱体化は誰が見ても明らかな状況でした。ところが、南朝に好機が訪れます。観応の擾乱です。
足利尊氏・直義兄弟の対立は、室町幕府を二つに分断し、抗争は激化して、戦いは全国に波及しました。そして、1352年(観応二年)に直義が急死して、この擾乱は終結します。
時行、最後の戦い
このとき、吉野にあって全国の南朝軍諸勢力の指揮を執っていたのは北畠親房でした。彼の指揮のもとに、京都・鎌倉を同時に奪回する大計画が実行されます。
1352年(観応二年)閏2月20日、親房の総指揮の下、北畠顕能・楠木正儀らの南朝軍は京都に侵攻し、不意をつかれた足利義詮は近江に撤退しました。
一方、関東でも同15日に上野で挙兵した新田義宗・義興・脇屋義治らの新田勢が、南朝の征夷大将軍宗良親王を奉じて武蔵に侵攻。直義の討伐以来、鎌倉に駐留していた尊氏軍が迎え撃つも各地で敗北し、18日に鎌倉を奪われます。
しかし、鎌倉を占領した新田軍が、今度は尊氏軍の攻撃を受けることになります。翌19日、両軍は武蔵人見原・金井原で激突。連日の合戦に疲弊した新田軍は、新手を次々と入れ替えて攻撃してくる尊氏軍の前になす術もなく、劣勢に追い込まれました。
このとき、新田軍を猛追する尊氏軍の背後に「三つ鱗(北条氏の家紋)」の旗が立ちます。新田勢にやや遅れて、16日に信濃を出撃した北条時行の率いる北条軍がようやく到着したのでした。
諏訪一族を中核とした北条軍の攻撃を受けて、尊氏軍は新田軍追撃を中止。そして、20日に北条時行は新田勢の敗残兵を取りまとめ、再び北条所縁の地鎌倉に入ります。
こうして、京都・鎌倉を同時に奪回するという北畠親房の作戦は成功したのでした。
しかし、足利方が態勢を整えて大軍をもって反撃に移ると、南朝軍はあっけなく京都・鎌倉を捨てて退却。
足利尊氏が鎌倉を奪回したのは閏2月28日。足利義詮が京都を奪回したのは約3ヵ月後の5月11日でした。
鎌倉が再度足利軍に奪回されたとき、逃亡した時行は、またもや潜伏します。
翌1353年(文和二年)5月20日、潜伏していた時行はついに足利の手によって捕らえられ、鎌倉の郊外滝ノ口の刑場で処刑されました。長崎駿河四郎、工藤二郎ら家臣も命運をともにしています。
鎌倉北条氏の嫡流は、ここに絶えたのでした。鎌倉幕府滅亡から20年を迎える2日前の出来事でした。
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