正平の一統(1352年)以降、南朝勢力は衰退を重ね、武家の内紛や権力闘争のために名前を利用されるといった登場の仕方が多くなります。
確かに、短期間ではありますが、4度にわたって京都を奪回しています。しかし、それは幕府内の紛争に乗じて実現したもので、南朝の実力で奪い取ったものではありません。その証拠に、京都を追われた幕府軍が態勢を立て直すと、すぐに敗れて退いています。
ところが、九州の情勢は別でした。唯一例外的に南朝が優勢で、少なくとも幕府と拮抗した地域なのでした。
>>>4度にわたる京都争奪戦
九州の南北朝動乱を見る前に、鎌倉時代の九州はどういう状況だったのか簡単におさらいしておきましょう。九州は、鎌倉幕府の影響力が最も遅くにおよんだ土地柄ですから、幕府本拠地の東国や六波羅探題の影響下にある畿内・西国とも異なります。
鎌倉時代の九州
九州は、前三国(筑前・豊前・肥前)、後三国(筑後・豊後・肥後)、奥三国(薩摩・大隅・日向)の九州と対馬・壱岐の二島からなります。
平安時代末期、日宋貿易の拠点として平氏が強力に支配し、自らの本拠地としていました。平家が滅亡すると、源頼朝は九州を鎌倉の支配下に入れるため、武藤(のちに少弐を名乗る)、大友、島津の三氏を関東より下向させて、ぞれぞれ前三国(少弐氏)・後三国(大友氏)・奥三国(島津氏)の守護に任命しました。三氏は「三豪」あるいは「三人衆」と呼ばれ、それぞれが数カ国の守護を兼ねるとともに、広大な所領の惣地頭に任命され、強大な勢力を築きます。
しかし、執権北条氏の権力増大とともに圧迫されて、少弐氏は筑前、大友氏は豊後、島津氏は薩摩一国の守護を保持するだけになってしまいました。
さらに、二度の元寇により幕府は鎮西探題を設置し、北条一門をこれに任じて九州の御家人を統括させることになりましたが、これも三人衆にとっては危機感を抱かせる措置だったのです。
>>>北条目線で九州統治を解説
一方、九州の在地領主(国人)層は、幕府の権威を背景にした三人衆の支配下に組み込まれ、さらに鎮西探題の圧迫もあって、彼らの多くは鎌倉時代を通じて幕府への反感を強めていきました。
鎮西探題滅亡
1333年(元弘三年)、隠岐を脱出した後醍醐が討幕を呼びかけると、九州では反北条連合の密約が肥後の菊池武時と少弐貞経・大友貞宗の間で交わされていました。しかし、3月13日に挙兵を要請した菊池武時に対し、少弐貞経・大友貞宗は態度を急変させ、結局は菊池勢だけで探題赤橋英時の館に突入し、武時は戦死します。
武時を見殺しにして、形成を観望していた少弐・大友氏は、六波羅・鎌倉滅亡を知って5月25日に鎮西探題を滅亡に追い込みます。菊池の両氏に対する恨みは半端ないものとなります。
建武時代
少弐・大友氏らは、北条執権政治下で失った守護国等を回復するために立ち上がったのですが、武家軽視の建武政権下では不満が高まる一方でした。そこに幕府復興を唱える足利尊氏が建武政権から離反して九州に落ち延びてきます。少弐頼尚(貞経の子)はいち早く合流し、1336年(建武三年)3月、多々良浜の戦いで菊池軍を破り、尊氏の窮地を救う功をあげました。
この三人衆はことごとく足利方につきましたが、彼らの望みは、かつての勢威を取り戻すことです。しかし、上洛の途につく尊氏は一色範氏を九州探題に任命して、九州の軍事統括者として残していきました。失望した三人衆は範氏の九州経営に非協力的な行動をとりますが、そこに南朝がつけ入ってくるのです。
九州の南北朝動乱
苦難の九州経営
1337年(建武四年)1月、湊川の合戦で幕府に捕らえられていた菊池武時の子武重は、幕府に一命を助けられて帰国するとただちに挙兵し、4月には南朝方の阿蘇大宮司阿蘇惟澄と協力して、肥後の上益城郡犬塚原で一色範氏の弟頼行軍を撃破します。続いて筑後に進出して少弐頼尚と戦うものの、一族内の結束が乱れたため活動を停止しました。
そして、翌年7月に武重が死去。このため南朝方の活動は停滞し、九州は一色範氏を中心とする幕府方によって支配されるかに見えました。ところが、「太宰少弐」として九州の統括者を自負する少弐頼尚との軋轢が絶えず、また南九州では島津氏が新たに日向守護となった足利一門の畠山直顕と対立します。
独立意識の高い九州武士は、幕府の統制下に簡単に従わず、さらに九州探題一色範氏は自ら守護をかねていた肥後一国の兵を動員できる力しか持たなかったことから、以後20年にわたって苦難に満ちた九州経営を強いられることになります。
懐良親王の九州下向
このような状況下、1342年(康永元年)、後醍醐天皇の皇子懐良親王一行が薩摩に上陸しました。懐良は後醍醐天皇の地方戦略に従って、1338年(暦応元年)頃、五条頼元に奉じられて吉野を出ましたが、途中、瀬戸内海の忽那島に3年の滞在を余儀なくされるなど、困難を経ての九州上陸でした。
この間、親王一行は熊野・忽那の水軍に護衛されていましたが、彼ら水軍の南朝への協力はこの後も続きます。親王一行を迎え入れた谷山氏は、島津氏の拠点東福寺城に近い場所にありましたが、当時の薩摩の国人はほとんどが守護島津氏に反抗していて、この谷山氏も島津氏と対立関係にありました。
懐良一行が上陸当初に頼ろうとしたのは、肥後半国を領有する阿蘇神社大宮司の阿蘇氏でした。菊池氏と手を結んでいた阿蘇氏です。しかし、この阿蘇氏も幕府方と南朝方の大宮司がそれぞれ立って一族が分裂していたことから、肥後に入ることができず、菊池氏に迎えられて肥後隈府城に入ったのは6年後の1348年(貞和四年)のことでした。
菊池氏は武時の子武光(武重の弟)が実力で惣領の地位につき、一族が結束して元弘の乱・多々良浜の雪辱を果たすべく燃えていたのです。
前年の1347年(貞和三年)、畿内で南朝方が蜂起し、楠木正行が幕府軍を次々と撃破していました。懐良は、畿内の南朝方に呼応するように、まず幕府の出先である鎮西探題の一色範氏を打倒すべく筑後に進出しましたが、範氏はよく防いで一進一退の状況が続きます。
足利直冬の九州下向
このような中で観応の擾乱が勃発し、京都の政情は一変しました。1349年(貞和五年)9月、中国探題として鞆(広島県福山市)にいた足利直冬が、高師直の討手に襲撃される事件がおきます。直冬は、肥後の河尻幸俊を頼って九州に逃げますが、九州に上陸すると将軍の仰せにより下向したと触れ回ったことから、幕府方であった阿蘇惟時が直冬方となりました。
続いて、日向の畠山直顕も直冬に下り、日向・大隅の土豪を組織して幕府方島津時久の新納院高崎城(宮崎県高鍋町)を落とし、勢力を拡大していきました。また、一色範氏と対立していた少弐頼尚が直冬に通じて、大宰府に迎え入れました。
1351年(観応二年)、尊氏・直義の一時的な講和が成立すると、直冬が九州探題に任命されたので、その勢威は大いにふるいます。そして、これまで度々帰京を願いながら許されず、限られた権限の中で苦しい九州経営を強いられてきた範氏は、探題を罷免されました。窮地に陥った範氏は、南朝に下り、直冬に抵抗する道を選びます。三人衆のひとり大友氏時も行動を共にしました。
こうして九州の情勢は直義を後ろ盾として少弐氏が主力となった直冬方、尊氏とつながり島津氏を主力とした幕府方、そして懐良親王を奉じた菊池氏(一色氏・大友氏)を主力とした南朝方の三つに分かれて争われます。これは、国々の間だけでなく、一族内の内部まで及びます。中央における「天下三分」の形成が、もっともはっきり現れたのが九州だったのです。
直冬衰退後の九州
しかし、1352年(文和元年)1月に直義が死ぬと、中央の情勢が直ちに九州に波及し、4月に一色範氏が幕府に復帰したことから、直冬の勢いにも陰りが現れはじめます。同年秋には範氏によって大宰府を追われ、ついに長門に逃れます。九州に上陸して三年後のことで、11月に南朝に下りました。
盟主として仰いでいた直冬が南朝に下ったことで、少弐頼尚も南朝に下ります。好機をつかんだ南朝は、1353年(文和二年)2月に懐良親王と菊池武光が少弐頼尚の呼応に応じて挙兵し、幕府方の範氏を大宰府南方の針摺原(はりすりばる)に撃破しました。
これが範氏にとって決定的敗北となり、1355年(文和四年)8月に肥前国府、10月には博多を占領された範氏は、20年にわたる九州経営を放棄して長門に逃れ、敗軍の将として帰京しました。
範氏が帰京すると幕府方は衰退し、大友氏が分裂します。大友貞宗の子で大友家当主の氏泰は南朝に下りて、弟の氏時は高崎城(大分県大分市)に籠もったまま懐良親王・菊池武光軍の包囲攻撃にさらされ、幕府に援軍を要請しました。
幕府は島津・畠山に救援に向かうように命令を下しますが、南九州では直冬の九州脱出後、畠山直顕が幕府復帰を表明しながら相変わらず幕府方の島津氏と抗争を続けていました。大友氏時の幕府への報告には、両氏ともに文和元年以降はどちらが味方かわからない、とあるような状況にありました。
さて、少弐頼尚は、範氏が京都を去ったため、これと対抗する必要がなくなり、再び幕府方となります。そして、この機会をとらえて菊池氏の本拠に攻め込もうとしました。頼尚は、懐良親王・菊池武光が大友氏時討伐に向かったすきに挙兵し、ここに九州内乱期最大の合戦筑後川の戦いが始まります。
1359年(延文四年)7月、『太平記』によると少弐軍6万、菊池軍4万が筑後川を挟んで対峙しました。少弐軍は、菊池軍の挑発にも戦わず後退し、防御に適した大保原(おおぼばる)に布陣します。8月16日に両軍は激突し、懐良親王も三カ所の傷を負うほどの激戦でしたが、ついに少弐軍は敗北します。
南朝の全盛期
この一戦を契機に南朝が優勢になり、南朝は肥前・筑前・日向を制して、1361年(康安元年)7月には頼尚の根拠地大宰府を占領し、8月に菊池武光はついに大宰府に征西将軍懐良親王を奉じて入り、征西府をここに移しました。
大宰府は古来より、外港の博多と一組で九州の統治の要で、その掌握によって九州支配ははじめて正当性をもっていました。懐良が吉野を発ってから24年、薩摩上陸から18年の歳月が経っていました。
一方、幕府は一色範氏の後任の探題に斯波氏経を任命します。氏経は大友氏を頼ってこの年9月に豊後に入りましたが、少弐冬資と連合して大宰府攻撃、長者原の戦いにも失敗して力を失い、1364年(貞治三年)九州を離れました。
氏経の後任は渋川義行でしたが、中国地方に滞在したまま九州入りすらできず、征西府の勢威は九州を覆い、ここに九州南朝の全盛を迎えたのでした。
九州探題今川貞世
九州南朝の勢威に陰りが生じるのは、1371年(応安四年)に新たに九州探題に任ぜられた今川貞世(了俊)が周到な準備を整えて九州に上陸してからでした。
了俊は在地の有力武士にしきりに書を送って味方につけ、軍勢を組織します。翌年2月に筑前に入り、8月には懐良・武光の守る大宰府を攻撃し、これを陥落させます。了俊はこれ以降、国人層に本領安堵や兵粮徴収権を与えることなどを約束することで軍勢に組み込み、また、政治・軍事的にすぐれた政策を実施したことから勢力が拡大していきました。
これに対し、不振に陥った南朝方では、懐良親王が征西将軍職を後村上天皇の皇子良成親王に譲って隠退。さらに菊池武光と嗣子武政があいついで没し、急速に衰退して菊池氏の本拠隈府城に後退しました。
これよりのち、了俊は南朝方を着々と追い詰めていきますが、1375年(永和元年)隈府城を攻撃中、水島の陣中で何かと対立していた少弐冬資を謀殺、冬資の参陣を説得するのに利用された島津氏が面目を失って離反したため九州の平定は長引くことになります。
南北朝合一から3年後の1395年(応永二年)に探題職を解任されるまで、了俊の九州経営は続くのでした。
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