院政が始まったのは中世ですが、すでに奈良・平安初期にはその可能性を秘めていました。それは、天皇と上皇の称号に端を発するものだったのです。
今回は、天皇と上皇の称号の起源に触れたうえで、それがどのような影響を及ぼしていたのか見ていきましょう。
天皇・上皇の称号
「天皇」という称号が用いられるようになったのは、7世紀初めの推古天皇の頃とする説と、7世紀末の天武・持統天皇のころとする説が存在しています。まだ、決着はついていません。
天皇という称号が使われる前の大和王権の首長は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。『日本書紀』には、初代神武天皇をはじめ「天皇」と記されていますが、これは『日本書紀』が成立した8世紀初めごろの称号をさかのぼらせて用いているからです。
皇位の継承は、大化より前はその死去を契機に行われていて、生存中に行われることはありませんでした。
7世紀半ば、天皇家と勢力を二分した蘇我氏が、中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターによって滅ぼされ、中国の律令体制を導入した政治体制による政治を行おうとしたとき、当時の皇極天皇は天皇の位を孝徳天皇に譲って天皇の位を退きました。のちにいうところの「太上天皇(上皇)」の始まりですが、「太上天皇」の称号は存在しておらず、当時は「皇祖母尊(すめおやのみこと)」と称しました。
太上天皇の称号は、697年に位を文武天皇に譲った持統天皇が最初です。それは『続日本紀』や、鎌倉時代初期の僧慈円が記した『愚管抄』に「太上天皇ノハジマリハコノ持統ノ女帝ノ御時ナリ」とみえるように、持統天皇が太上天皇の最初だったと考えられています。
したがって、「天皇」も「太上天皇」もほぼ同じころに成立し、「浄御原令(きよみはらりょう)」の段階で成立したものと考えられています。律令の条文では「養老令」で、「太上天皇」とは「譲位の帝、称する所」と規定しています。
中国には、当然「太上天皇」という称号はありませんが、近い称号に「太上皇」という称号があります。しかし、中国では実際に政治を行うものは「帝」であって、「皇」ではないという考えがあるそうです。ですから、太上皇が政治に関与することはないのですが、日本の「太上天皇」はこの点が不明確だったことから、天皇の上に立つ天皇(上皇)が誕生する可能性をもっていたのでした。
天皇と上皇のせめぎ合い
持統以降、奈良時代までの上皇は、元明・元正・聖武・孝謙の5人で、平安時代に入ると、白河上皇の「院政」開始まで、平城・嵯峨・淳和・清和・陽成・宇多・朱雀・冷泉・円融・花山・三条・後三条の12人を数えます。「上皇=院政」となりがちですが、このように院政以前にも上皇は存在していました。
ただ、この奈良~平安時代においても、上皇が天皇を上回ろうとする動きがあったのでした。
代表的なものには孝謙上皇と平城上皇が有名です。
孝謙上皇
758年(天平宝字二年)、孝謙天皇は大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇になりました。その5年後の天平宝字六年、五位以上の官人・役人に対して淳仁天皇の権限をはく奪することを命じました。つまり、普段の政治・小事は淳仁天皇が行い、国家の大事・賞罰は孝謙上皇が行うというものでした。しかも、持統以降、太上天皇と天皇は同宮に住んで政事を共におこなうという慣例を破って、出家して別宮で行う先例を開きました。これをきっかけに、藤原仲麻呂の乱がおこり、その結果として淳仁天皇は廃されました。まさしく、中世における院政の古代版と言うべきものだったのです。
平城上皇
桓武天皇が在位のまま崩御して、皇太子安殿親王(平城天皇)が即位します。病弱だったことから、在位3年で神野親王(嵯峨天皇)に譲位し、太上天皇となりました。藤原薬子・仲成らと謀って、旧都平城京に移り、平安京の官人・役人を集めて、太上天皇の権限を強化しようとしました。「薬子の変」で知られる事件に発展しますが、これは平城上皇に院政の意図があったわけではなく、自身の権力拡大と藤原式家の勢力拡大をはかる薬子・仲成の謀略によるものとされています。
このように、孝謙上皇・平城上皇とも、白河院の行ったような「院政」を行う意図はありませんでしたが、太上天皇の存在はいつでも天皇を上回る権力を手に入れることができる存在だったことがわかります。
上皇のルール化
いつでも、太上天皇が天皇を上回る権力を手に入れる存在であることは、天皇を中心とする律令国家にとって都合の悪い話です。
嵯峨上皇は、薬子の変の反省から「太上天皇」のルールを作ります。それは、新天皇から「太上天皇」の尊号を奉り、それを受け入れることによってはじめて、太上天皇と称するルールです。その際、太上天皇は中国風に三度にわたる辞表の提出とそれに対する勅答が繰り返される手続きも始まります。
このルールによって、天皇と並んで天下を治める可能性のある「太上天皇」から、天皇に従属する「太上天皇」に変化したのです。
823年(弘仁十四年)、嵯峨天皇は大伴親王(淳和天皇)に譲位します。この際、嵯峨天皇が定めたルールに則って、嵯峨太上天皇が誕生しました。
院御所のはじまり
嵯峨上皇には、封戸2千戸と後院として冷然院(のちに冷泉院)が贈られました。これが院御所の始まりで、天皇と上皇が別居する慣例の始まりです。この冷泉院は、平安京大内裏の東南に接する位置にありました。現在の二条城・神泉苑の辺りです。
835年(貞和二年)、刑部大輔安部安仁が院別当に任じられていますが、これが院司(いんのつかさ)の任命された初見とされています。
院御所・院司は、教科書では白河院政で登場しますが、すでに平安時代初期の嵯峨上皇からありました。このように、院政はいつでも起こりうる話だったのですが、実際は摂関政治の後の後三条天皇即位をきっかけに始まることになります。
参考文献
北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。
土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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