得宗北条氏の中で、もっともマイナーと思われる人物が4代執権北条経時。それもそのはず。たった4年しか活動していないので。
しかし、この4年の間に、将軍頼経を更迭して、将軍と執権の対立関係を解消し、評定衆の改革も行って裁判制度の迅速化をはかるなど、若くして大きな仕事をやってのけています。
誕生から執権就任まで
北条経時は、1224年(元仁元年)に3代執権北条泰時の嫡孫として生まれました。父は泰時の嫡子時氏で、母は安達景盛の娘で松下禅尼。松下禅尼は、経時の弟で5代執権になる時頼に質素倹約を教えたことで知られています。
妻は宇都宮泰綱の娘で、1245年(寛元三年)9月4日に15歳で没しました。宇都宮一門の歌集『新和歌集』には、妻の病状を思いやる経時の和歌集が収められています。
幼名は藻上御前。通称は弥四郎・大夫将監・武州等。
幼少時代は、六波羅探題を務める父時氏(泰時の嫡子)とともに京都で6年間過ごしました。1230年(寛喜二年)3月、父時氏とともに京都から鎌倉に戻りますが、直後に時氏は発病して没します。経時7歳のときであり、以後祖父泰時の教育を受けることになります。
1234年(文暦元年)3月5日、11歳で元服。4代将軍藤原頼経邸で元服の儀が行われ、将軍頼経の「経」の一字を拝領し、弥四郎経時と名乗りました。加冠役は将軍みずからが勤めています。同年8月1日に小侍所別当に就任し、1236年(嘉禎二年)12月26日までつとめました。
1237年(嘉禎三年)2月28日に左近将監、同29日叙爵。1241年(仁治二年)8月12日、18歳で従五位上に叙され、同年6月より翌年6月の1年間にわたって評定衆を務め、北条氏嫡流として歩みだします。
1241年(仁治二年)11月25日、泰時は経時と甥の金沢流北条実時を自邸に招いて、経時に「好文を事となし、武家の政道を扶ける」「実時と相談し水魚のように親しくなる」ように諭したといいます。泰時は、若い経時の補佐に同年で学問を好み、後に金沢文庫を創設する金沢実時を選んだのでした。
その4日後、鎌倉の若宮大路で小山氏と三浦氏との対立が起こり、両氏の一族郎党が集まって合戦寸前という騒動が起こりました。
この騒ぎを聞いた経時は、自身の家人を武装させて姻戚の三浦氏(北条泰時の妻:矢部禅尼)に加勢させます。一方、弟の時頼は一方に味方することなく静観しました。泰時は、「将来の将軍後見となる人物が御家人の一方に加勢することがあってはならない」と経時に謹慎を命じたと『吾妻鏡』に伝わっています。
これに関しては、経時没後に得宗を継いだ時頼を持ち上げるための創作話と言われたりしています。仮に、経時がこのような軽率な行動をとったとしても、のちの執権としての彼の行動を見れば「若気の至り」だったということになるでしょう。
執権経時
1242年(仁治三年)6月15日、執権北条泰時が没し、孫の経時が4代執権になります。ちなみに、泰時の息子で、経時の父時氏は若くして没していました。
執権に就任した経時は19歳で、将軍頼経は25歳。将軍が執権より年長となり、将軍と執権の年齢が逆転しました。さらに、頼経は鎌倉殿として18年も御家人の頂点にいます。明らかに、経時と「重み」が違います。
さらに、頼経の周囲には名越流北条光時や有力御家人三浦氏等の反執権勢力が集まっており、若き執権経時の立場は危ういものでした。
得宗専制政治が確立するまで、執権が交代するとき、必ずと言っていいほど北条氏一族内で御家騒動が勃発しています。
経時の祖父北条泰時が執権に就任したとき、伊賀氏の変が起こりました。この変は、2代執権北条義時が没すると、義時の後妻・伊賀の方が息子の北条政村(泰時の異母弟)を3代執権に就けようと画策したもので、結局は尼将軍・政子によって失敗するという事件です。このとき、泰時の弱い立場を補うべく、政子は時房(政子・義時の弟)を初代連署として執権泰時を補佐させました。
弱冠19歳で執権に就任した経時も、泰時の執権就任と同様に不安定な状態でした。それを見越して、泰時は臨終間際に名越氏の勢力を削ごうとしたと考えられています。
余命幾ばくもなくなった泰時は出家しますが、名越当主の朝時も謎の出家を遂げます。泰時と朝時の不仲は京都でも有名だったことから、朝時の出家は京都の公家を驚かせたようです。このことについて、『吾妻鏡』には記載はありませんが、京都の公卿平経高が鎌倉からの話として、彼の日記『平戸記』に記しています。
その内容を要約すれば「朝時が出家したけど大丈夫だろうか?鎌倉で何が起こったのかわからないけれども、京都~鎌倉間が封鎖され物々しい状態になっている」とのことです。
泰時は自身の死後、朝時が経時を追い落とす可能性があると考え、出家させたと推測されています。
北条政子は、立場の弱い執権泰時を補佐させるために、政子の弟で泰時の叔父にあたる北条時房を連署(副執権)として幕政に参加させました。これによって、泰時の立場は強化されます。
経時も、泰時同様に弱かったのですが、連署を置いていません。経時のあと、弟の時頼が5代執権に就任したときも幕府は動揺しますが(宮騒動)、時頼は大叔父の極楽寺重時(泰時の異母弟)を連署に迎えています。
なぜ、経時が連署を置かなかったのか?。祖父泰時は連署の時房が死んだとき、新たに連署を置かずに、政所別当を1名から7名に増やしていました。別当が複数人いるというのは、これが最初で最後です。経時は、この体制をそのまま継続し、政所別当を6名として幕政を運営しています。泰時が、この政所別当6名に経時の補佐を頼んでおいたのかもしれません。
将軍頼嗣擁立
18年も鎌倉殿として君臨する頼経の周囲には、反執権勢力の名越北条氏や三浦氏などの有力御家人が集まり、経時にとって大きな脅威となっていました。政所別当6名の補佐があるからといって安心はできません。
経時は、反執権勢力の粉砕を画策します。反執権勢力のシンボルは将軍頼経です。そのシンボルを排除するという荒業に出ます。
1244年(寛元二年)4月21日、経時が烏帽子親となり頼経の嫡子頼嗣(よりつぐ)の元服が行われました。そして、頼嗣元服の同日、すでに夕方になっていましたが、経時は被官(家来)の平盛時を京都に派遣し、頼嗣の将軍宣下を奏請します。
4月28日になって、経時の思惑通り朝廷は頼嗣を征夷大将軍に任命しました。執権経時によって、頼経は将軍職を解任されてしまったのです。
強引に将軍の座から引きずり降ろされた前将軍頼経の経時への反発は大きく、経時が何度も帰京を勧めても、頼経は鎌倉に居つづけます。
1245年(寛元三年)7月、天変地異と日ごろの病を理由に頼経は出家しますが、「大殿(おおいとの)」と呼ばれ、将軍頼嗣の後見役としてその存在感を示していきます。
そして、同年7月には妹で16歳の檜皮姫を新将軍頼嗣に嫁がせます。将軍家との関係を密にし、政局の安定をはかったのです。
評定改革
合議制である評定衆の原点は、源頼家時代の「13人の合議制」にはじまり、その後に機能拡充がはかられ幕府の主要機能になります。
執権政治の時代、幕政は評定会議が中心となりますが、泰時以前は将軍御所で開催されていました。泰時の時代になると将軍御所以外に、執権邸・小侍所・政所などで開催されるようになります。将軍は、将軍御所での評定に参加しなくなり、評定での決定事項を確認するのみとなりました。執権が評定を主導する執権政治が成立したのでした。
経時は、執権に就任した翌年の1243年(寛元元年)2月に評定衆を三番制とし、番ごとに沙汰日を定めるなどの改革を進めます。この各番の筆頭が同年6月12日に正五位下に叙され、7月8日に武蔵守に補任されました。
早すぎる死
このように、執権として精力的かつ巧みに幕政を運営していた経時ですが、1245年(寛元三年)5月に病を患い、翌1246年(寛元四年)3月23日には病状が悪化したため、執権を弟時頼に譲って4月19日に出家。10日後の閏4月1日、23歳の若さで死去しました。合掌。
経時の死後、執権についたのが北条時頼です。
参考文献
細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』吉川弘文館。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
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