中世は白河上皇の院政から始まったとされていますが、その前に行われていた政治といえば摂関政治。藤原道長・頼通の頃が全盛期と言われていますが、今回はその摂関家の勢威が弱まった原因と後三条天皇の即位にいたる経緯を見ておきましょう。院政時代の前段のお話です。
後三条天皇の即位
1068年(治暦四年)4月19日、在位23年におよんだ後冷泉天皇が皇子を残さずに崩御。そのあとを継いで即位したのが尊仁親王(後三条天皇)です。宇多天皇から数えて170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇の誕生で、村上天皇以後100年ぶりの天皇親政の復活でした。
後三条天皇は、即位したときすでに35歳で、23年におよぶ長い皇太子時代を過ごしました。長い皇太子時代を送らざるを得なかったのは、後三条天皇の母が藤原摂関家ではなかったからです。後三条天皇が即位をすれば、藤原氏は外戚として政治を動かせなくなりますから、藤原氏によって即位させてもらえないのは当然といえば当然。その間、藤原氏も外戚の地位を維持しようと必死で娘たちを入内させて、皇子誕生を画策していたわけです。
摂関政治衰退の原因
少し時代はさかのぼって、藤原道長の娘を母とした後一条・後朱雀・後冷泉の三天皇の時代、道長はもちろん、その後を継いだ関白頼通の代まで外戚としての地位を保つことができ、摂関家の勢威は将来も保たれるはずでした。
後朱雀天皇には、道長の娘嬉子の生んだ親仁親王(のちの後冷泉天皇)のほかに、三条天皇の皇女禎子内親王の生んだ皇子がいました。嬉子は皇子出産後に没したため、後朱雀天皇は即位するとすぐに禎子内親王を皇后とします。
ところが、頼通にはそのとき一人の娘もいなかったので、姪に当たる嫄子を養女として中宮に立てて、禎子内親王に対抗します。しかし、嫄子は皇女を生んだものの皇子を出産することはなく、まもなく没しました。頼通の外戚計画は失敗に終わったのです。
その後も、頼通の兄弟の教通や頼宗もそれぞれ娘を宮中に送り、次の後冷泉天皇の後宮にも頼通・教通の娘が入りましたが、実を結びませんでした。結局、禎子内親王の生んだ尊仁親王(後三条天皇)が即位するという、摂関家にとっては不都合な事態が生じたわけです。
『栄華物語』によれば、「尊仁親王と仲が悪い」といわれていた藤原頼通は、関白を教通に譲って宇治の別荘に隠居します。将来、自分の嫡子師実を関白に就任させるという約束があったと言われています。
院近臣のはじまり
尊仁親王は皇太子時代、学問に励む一方、即位後に備えて天下の政治を見守る姿勢を持っていたといわれています。『栄華物語』には、「お心まっすぐで、他人の言いなりになることもなく、学才も大変すぐれてる」と記されています。
即位した後三条天皇は、摂関家に気兼ねすることなく、政治の主導権を握ることになりました。後三条天皇の親政は、1073年(延久五年)に崩御するまでのわずか5年間ですが、朝廷に大きな変化をもたらしました。
醍醐・村上源氏勢力の復活
藤原摂関家による公卿(三位以上の貴族)独占が破られ、醍醐源氏・村上源氏の進出がもたらされますが、その起点は道長の時代にありました。
安和の変(969年)で醍醐源氏・左大臣源高明が失脚して以来、源氏の廷臣は影をひそめていましたが、道長は高明の子源俊賢を重用しました。かれは道長の下で摂関家の意向に沿った行動をとり、確固たる地位を築いていきます。俊賢の子隆国も後冷泉天皇や関白藤原頼通に重用され、摂関家の意向をふまえて、皇太子時代の後三条天皇をないがしろにしていたと言われています。
後三条天皇は即位後、隆国の子隆俊・隆綱・俊明に対して仕返しをしようとしましたが、優秀な人材だったことから重用することにしました。俊明にいたっては、白河天皇にも重用され、白河院政開始後は「院近臣」として活躍します。
村上天皇の皇子具平親王から出た村上源氏は、具平親王の子源師房が頼通の養子となって頼通の妹(道長の子)と結婚し、師房の娘麗子も頼通の長子師実に嫁いでいます。さらに、具平親王の娘二人は頼通・教通に嫁いでいます。村上源氏は、摂関家と婚姻関係を何重も結んで、朝廷内での勢力を増していきます。後冷泉天皇の時には、具平親王の子師房、師房の子俊房・顕房は公卿の座についています。
そして、村上源氏は後三条天皇の即位をきっかけに、摂関家とは異なる外戚関係を結んでいきます。
中下級貴族の登用
後三条天皇の時代における源氏の重用は、摂関家との姻戚関係のみを背景にして行われたのではなく、後三条天皇の人材登用の方針によって行われました。このことによって、摂関政治のもとでは恵まれなかった中下級の貴族に光が当たり、その活躍の場を得ることになります。その代表者が大江匡房。鎌倉幕府草創期に大活躍した大江広元の曽祖父にあたります。血のつながりは不明ですが・・・。
大江匡房は非常に頭脳明晰で、18歳で官吏登用試験に合格するなど、その才能は申し分のないものでした。しかし、公卿に昇進することは叶わず望みを失っていたところ、皇太子時代の後三条天皇に見いだされ東宮学士(皇太子の教育係)に任じられ、後三条の即位後は記録荘園券契所(記録所)の寄人に任ぜられるなどの重要政策に深く関わっています。大江匡房は、後三条天皇の後の白河天皇にも重用され、この世を去ったときは「前権中納言正二位行大蔵卿」でした。
京都日野(京都市伏見区)の地に法界寺を建立した藤原資業の子実政、勧修寺流藤原氏の中興の祖である藤原為房なども後三条天皇の人材登用の中で頭角をあらわし、日野氏・勧修寺氏の繁栄の道を開きます。特に日野氏は、後醍醐天皇の側近として活躍する日野資朝・俊基を輩出し、さらに足利将軍家の正室を輩出する家柄に成長します。日野富子は特に有名です。
このように、後三条天皇の人材登用方針は白河天皇にも引き継がれ、白河院政において「院近臣」と呼ばれる中下級貴族が朝廷を動かしていくことになります。これも日本中世の特徴です。
参考文献
北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。
土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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