金沢貞顕は12代連署で、15代執権です。幕府の中枢にいながら、内管領長崎氏に実権を奪われていたがため、執権として活躍らしい活躍をせずに幕府滅亡とともに滅んだ貞顕。優しい性格だったのか、臆病な性格だったのか意見が分かれる人物ですが、彼の生涯がどのようなものだったのか見ていきましょう。
金沢流北条氏
金沢貞顕は、1278年(弘安元年)に金沢顕時の子として生まれました。母は遠藤為俊の娘と言われています。金沢北条氏は北条義時の六男実泰を祖とする庶流ですが、実泰の子実時が北条泰時に登用されて才能を発揮すると、北条時頼・時宗政権下で評定衆や一番引付頭人などの要職に就きました。実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷に別邸を設けて、金沢文庫を創設したことでも知られています。
その子顕時も北条時宗・貞時のもとで評定衆や引付頭人に任命され、庶流でありながら金沢氏は政権中枢にあって、嫡流の得宗家を支えた一族でした。
少年時代
1285年(弘安八年)11月、金沢貞顕が8歳のときに「霜月騒動」が勃発します。執権貞時の外戚で御家人のリーダー格だった安達泰盛が、得宗家御内人のリーダー格である内管領平頼綱に討たれるという事件で、泰盛と頼綱の争いだけにとどまらず、事件は全国に波及し、多くの御家人が滅ぼされました。
貞顕の父顕時は、泰盛の娘婿だったことから連座で下総国埴生荘に流罪となります。このため、貞顕は父不在の少年期を過ごしました。
1293年(永仁元年)4月、執権貞時によって平頼綱は滅ぼされ(平禅門の乱)、顕時は鎌倉に戻ることを赦されます。貞時16歳のときでした。この少年時代に、霜月騒動・平禅門の乱という血で血を争う幕府内部の権力争いを目にしたことが、彼の性格に大きな影響を及ぼしたのかもしれません。
1301年(正安三年)3月に顕時は54歳で没し、貞顕は金沢氏の家督となります。このとき24歳。同母兄の顕実らを越えての家督を継承でした。前年には従五位上に叙されていることから、兄弟たちの中でもかなり有能だったことをうかがい知ることができます。顕時は有能な貞顕に家督を継がせたかったのでしょう。
2度の六波羅探題
1302年(乾元元年)7月、25歳の貞顕は六波羅探題南方として上洛します。金沢氏では最初の就任でした。
前任の大仏宗宣は探題南方として初めて執権探題(南北探題の長)となり、永仁の徳政令を西国で施行していましたが、貞顕も本来序列が低い南方の就任でありながら、1303年(嘉元元年)12月~1307年(徳治二年)8月には執権探題として政務を主導しています。
貞顕が六波羅探題に就任した頃、六波羅評定衆や奉行人などの官僚組織は完成していて、西国の裁判をはじめ六波羅探題の職務そのものは官僚たちが担っていました。貞顕に求められた能力は、官僚たちをスムーズに動かす能力だったと言われています。
貞顕は探題南方時代、公家たちから借用した『たまきはる』『百錬抄』『法曹類林』など朝廷の歴史や法律に関する様々な本を書写・収集しています。北条一族きっての文化人・教養人らしい金沢氏の側面を物語るエピソードですが、六波羅の実務は官僚たちが担っていて、探題の職務が六波羅探題創設時のような激務ではなかったことの裏返しと言うこともできます。
1308年(延慶元年)12月に鎌倉に戻り、1310年(延慶三年)6月に探題北方として2度目の上洛を果たします。貞顕は2度目の探題就任を固辞しますが、再任されました。
再任された理由は、京都の情勢が、貞顕が探題南方として京都に赴任していたときと情勢は大きく変化したからと考えられています。
その頃の京都は、持明院統と大覚寺統の両統の対立の激化し、悪党らの蜂起がさかんになっていて、六波羅探題の任務は困難なものとなっていました。そこで、京都を熟知している貞顕に白羽の矢が立ち、京都へ上洛することになったようです。1314年(正和三年)11月には、鎌倉に戻っています。
10日間の執権・嘉暦の騒動
鎌倉に戻った翌年の1315年(正和四年)7月に連署に就任。このとき38歳。翌年7月には14歳の北条高時が執権となり、貞時は約10年間にわたって高時を補佐することになります。得宗を支える「御一族宿老」として、官位は従四位上・修理権大夫に任じられました。
しかし、高時・貞顕政権はこの10年の間、大きな政策を行うことはなく、政治の実権は内管領長崎円喜・高資父子と岳父安達時顕らが幕政を運営していました。1324年(元亨四年)に後醍醐天皇による「正中の変」が起こりますが、何も対応できずに終わります。
1326年(嘉暦元年)3月に執権高時は出家し、貞顕は長崎氏に推されて執権に就きました。これに猛反発したのが高時の弟泰家と生母大方殿。高時の弟泰家は自分が執権になるものと思っていたようで、金沢貞顕の執権就任という「予想外」の出来事に対して、泰家とその生母大方殿は腹を立てて、泰家は出家するという事件が発生しました。貞顕は泰家の襲撃を恐れて、わずか10日で執権を辞して出家します。49歳。これを嘉暦騒動とよびます。臆病な性格といわれるゆえんです。
このあと執権に就いたのは赤橋守時でした。守時は、尊氏の正室で、義詮・基氏の母である登子の兄です。
金沢氏の家督を継いだのは貞将。1324年(正中元年)11月、貞将は貞顕同様に探題南方として5千の兵を率いて上洛します。正中の変直後の上洛で、幕府が貞将を期待していたと推測されます。貞顕は貞将の探題在任中、鎌倉から手紙を送って様々なアドバイスを与えました。貞顕の優しさをうかがい知ることができます。
1333年(元弘三年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡し、貞顕は北条高時ら一門とともに東勝寺で自害しました。享年56歳。
足利尊氏の兄高義は早世したため、足利氏を継ぐことはありませんでしたが、高義の母は貞顕の妹にあたります。金沢貞顕もまた、足利氏を北条一門につぐ家として認知していたにちがいありません。その足利氏が、自身や息子貞将が探題をつとめた六波羅を攻め滅ぼしたことを聞いてどう思ったことでしょう。激動の時代を生きた貞顕に合掌。
参考文献
秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条氏一族』吉川弘文館。
細川重男編『鎌倉将軍執権連署列伝』吉川弘文館。
北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社。
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