後三条天皇の即位は、外戚の地位を維持できない摂関家にとって不都合だったわけで、藤原頼通は宇治の別荘に引退して弟の教通に関白を譲ってしまいます。藤原氏の影響力が弱まったことによって、後三条天皇は自由に政治を行えるようになりました。天皇は即位の翌年に「延久」と年号を改め、大改革を実施します。
後三条天皇の施策で有名なのは延久の荘園整理令と記録所の設置です。従来は、摂関家の荘園を整理し、その経済力を削ぐことによって天皇家の力を伸ばそうとしたと言われていましたが、最近の研究では「大内裏造営」が目的だったことが指摘されています。
教科書には荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫したので、荘園整理をおこなったとありますが、大内裏の造営にあたって公領を圧迫している荘園からも「税金」をとってやろうと置き換えてよいでしょう。
大内裏造営
平安京の内裏がはじめて焼亡したのは960年(天徳四年)で、これ以降何度か炎上しています。976年(貞元元年)・980年(天元三年)・982年(天元五年)と火災が続き、その後も一条天皇時代に3回、三条・後朱雀・後冷泉時代に2回ずつ焼亡しています。なぜ、これほど頻繁に火災に見舞われたのか明らかではありませんが、その都度、天皇は「里内裏」とよばれる臨時の御所での居住を余儀なくされました。
天皇の住まいのある内裏は、1058年(天喜六年)2月に焼失したままで、後三条天皇の場合、西洞院二条の閑院と呼ばれる里内裏で即位しています。その後も二条殿・三条大宮殿・高陽院・四条殿を転々としていました。
1068年(治暦四年)7月の即位式が済んだ翌月、大内裏の大極殿木作始めが行われ、10月に上棟、1072年(延久四年)4月に完成しました。内裏は、1070年(延久二年)に着手して翌1071年(延久三年)に完成し、8月にはこの新しい内裏に移っています。後三条天皇は1073年(延久五年)に崩御するので、即位中のほとんどを大内裏の造営を行っていたことになります。
内裏・大内裏の造営は申すまでもなく一大事業で、一般予算ではまかなえないことから、特定の国を選んで(所課国)費用を分担させる「国宛」という方法を採用しました。割り当てられた国司は、国内に臨時の税をかけます(造内裏役)。国司のかける税は、通常の公納物・臨時の税を問わず、国司の管轄下にある土地(公領)にかけるのが原則でしたが、11世紀後半には公領・荘園双方から徴収できる一国平均役を朝廷に申請する国司が現れるようになります。この延久の大内裏造営によって、この動きが体制化されることになったのです。この一国平均役は以後も続き、室町時代になると段銭と言われるようになって、守護大名の領国経営に大きな影響を与えます。
延久の荘園整理令と記録所の設置
この一国平均役を荘園にまで課税対象にするとなると、「どこが公領で、どこが荘園か?」「荘園の持ち主(荘園領主)は誰か?」などが明確にする必要があります。そして、荘園については、場合によっては荘園領主に徴収を依頼し、一括して国司に納入させる必要が生じます。
そこで行われたのが、1069年(延久元年)2月と3月に発布された荘園整理令で、同年閏10月にはその実施機関として記録荘園券契所(記録所)が太政官庁の朝所(あいたんどころ)に設置されました。延喜の荘園整理令(902年に醍醐天皇により行われた)以後、荘園整理令は度々発布されていますが、記録所という荘園整理を担当する専門機関が置かれたのは延久の荘園整理令が初めてです。
荘園整理令
延久より以前の荘園整理令では、もっぱら国司にその審査が任されていましたが、延久の荘園整理令での記録所の設置によって中央で一括して審査する体制がとられました。記録所では荘園領主と国司から提出された証拠文書の審査が行われました。
延久の荘園整理令では、「1045年(寛徳二年)以降に新たに立てられた荘園を停止する」ことを原則とし、二月令では公田の横領や土地の所在の定まらない荘園の所在・領主・面積を朝廷に報告することを命じ、三月令では「寛徳二年以後」という年限規定の例外として証拠文書の存在、国司の職務遂行に妨げになっていないことを条件に加えています。
つまり、延久の荘園整理令は、太政官に証拠文書を提出させ、それを記録所で審査するということで、その「証拠文書」には、荘園の所在・領主・田畠の総面積の記載が求められました。この証拠文書は、中世の土地台帳である「大田文」の内容やその作成過程が似ていることから、延久の荘園整理令を契機に、中世荘園体制が形成されたという指摘もあります。
かつて、延久の荘園整理令は、摂関家の荘園は対象外としていたと言われていましたが、実際は対象となったようです。頼通が直接支配していた平等院とその所領は除外されたようですが、それ以外の摂関家の荘園は整理令の対象となり没収された所領は少なくなかったようです。
記録所
延久の記録所以後の記録所は、白河院政期の天永の記録所、後白河親政期の保元の記録所、後白河院政期の文治の記録所があります。文治以降は、鎌倉時代を通じてほぼ常置されていました。その組織は、延久の記録所と同様でしたが、機能・性格はそれぞれに特徴がありました。
天永の記録所は荘園整理の面よりも訴訟裁定機関としての性格が強く、保元の記録所は延久・天永の記録所の機能を統合したもので、文治の記録所はそこに新たに「年中式日の公事用途の式数の勘申」が機能として加わりました。「年中式日~」は、年中行事に要する費用について、本来の品目・数量とその代納物との換算量を定めたものと言われています。
記録所は鎌倉時代以降、公家政権における訴訟制度が整備されていくなかで、その機能を拡充し、やがて後醍醐天皇の建武新政において象徴的機関となります。このように、後三条天皇が設置した記録所は重要な歴史的意味を有しているのです。
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