後三年の役と源義家~奥州藤原氏誕生のきっかけとなった乱

院政の時代
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前九年の役の結果、最も多くの利を得たのは誰か?それは、伊予守となった源頼義ではなく、頼義を支援した清原武則でした。彼は出羽の豪族(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)で、「俘囚(朝廷に属した蝦夷)の主」でありながら、従五位下鎮守府将軍の官位を得て、さらには安部氏が支配していた奥州の奥六郡を支配下におさめました。

清原氏が中央の軍事貴族(軍事・治安を担当する貴族)並みの官位を得たり、奥羽両国におよぶ広大な範囲を支配下におさめることを認められたのは、武則の武功が評価されただけでなく、奥羽の辺境地帯を「俘囚の主」清原氏の支配に委ねるという朝廷の政策も大きく影響しています。この政策は、のちの奥州藤原氏が奥州の地を独立国のように支配することになります。

今回は、奥州藤原氏の前代清原氏をめぐる後三年の役を見ていきましょう。

 

前九年の役と源頼義~源氏が武士の棟梁となった戦いを解説
源頼朝や足利尊氏の源氏は「河内源氏」と呼ばれています。河内源氏は名前の通り、「河内」を基盤とした清和源氏の一派。河内源氏の祖は源頼信で、今回お話する源頼義の父にあたる人物です。この頼信が積極的に東国との関係を築いたことで、河内源氏は東国で基...

 

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清原氏の内部分裂

摂関政治に終わりを告げた後三条天皇の親政は、桓武天皇を意識していたと言われ、主に二つの大きな事業が遂行されました。内裏の造営と蝦夷討伐です。

 

延久の荘園整理令と記録所について解説~後三条天皇の親政
後三条天皇の即位は、外戚の地位を維持できない摂関家にとって不都合だったわけで、藤原頼通は宇治の別荘に引退して弟の教通に関白を譲ってしまいます。藤原氏の影響力が弱まったことによって、後三条天皇は自由に政治を行えるようになりました。天皇は即位の...

蝦夷討伐事業によって、1070年(延久二年)12月、陸奥守源頼俊(頼親の孫)は、奥六郡の民衆を襲った蝦夷を追い出し、東の閉伊・北の糠部・宇曾利・西の津軽を征服し、「衣曾別島(北海道南部)」の「荒夷」を服属させました。それまで奥六郡・山北三郡として固定されてきた国境は北上し、閉伊郡・糠部郡・久慈郡・津軽郡が新たに設置されました。

この事業に貢献したのが鎮守府将軍清原武則の嫡孫真衡で、その恩賞として鎮守府将軍に任命され、新たに置かれた四郡は清原氏の監督下に置かれました。清原氏は武則・武貞を経て真衡の代となって、その勢力はすっかり奥州に根をおろし、「当国のうちの人はみな従者なり」といわれ、真衡の勢威は「父祖にすぐれて国中に肩を並ぶるものなし」との評判でした。

 

前九年の役と源頼義~源氏が武士の棟梁となった戦いを解説
源頼朝や足利尊氏の源氏は「河内源氏」と呼ばれています。河内源氏は名前の通り、「河内」を基盤とした清和源氏の一派。河内源氏の祖は源頼信で、今回お話する源頼義の父にあたる人物です。この頼信が積極的に東国との関係を築いたことで、河内源氏は東国で基...

しかし、真衡は清原一族内部で反発を受けていました。前九年の役の頃の清原氏は同族連合体で、惣領家(宗家)のみが絶対優位を占めていたわけではありません。ところが、真衡の頃になると事情は変わって、一族の多くは真衡の従者に地位に成り下がっていました。

真衡に子はなく、海道小太郎成衡を養子としていました。海道は陸奥南部地方のことで、常陸平氏大掾氏の一族海道氏が勢力を有していました。その成衡の妻には源頼義の娘を迎えています。真衡は清原氏の惣領としての地位を保つために、他家から養子を迎え、関東に勢力を広げた河内源氏から娘を迎えたのでした。

1081年(永保元年)頃、その婚儀の席で事件は起こりました。清原一族の長老だった武則の婿・吉彦秀武は、前九年の役に際しては、頼義のもとで押領使に任命されたほどの有力者でしたが、秀武も例外なく真衡の従者に成り下がっていました。

婚儀の場で秀武は、祝賀の金を朱色の盆に積んで頭上に捧げたまま長い間庭にひざまずいていました。これは真衡に臣下の礼をとっていたことになりますが、それに対して真衡は奈良法師との囲碁に夢中になって、秀武を忘れて長時間待たせた挙句、無視するあり様でした。

秀武は怒りを爆発させ、出羽の本拠に戻り挙兵に及びます。真衡の異母弟家衡とその異父兄で藤原経清の遺児清衡もこれに呼応しました。こうして、惣領真衡と庶流秀武・家衡・清衡という清原氏一族の対立が頂点に達したのです。

真衡は秀武討伐のために出羽に出陣しました。家衡・清衡は、ただちに軍勢を率いて胆沢郡白鳥村の民家400余家を焼き討ちして気勢をあげます。しかし、この報せを受けた真衡が本拠に引き返すと、家衡・清衡は軍勢を率いて対峙の陣を固めました。

こうした中、1083年(永保三年)秋に陸奥守として赴任してきたのが頼義の嫡男八幡太郎義家です。前九年の役終結から21年の歳月が経っていました。真衡は大いに義家を歓待して、数日後に再び秀武追討のために出羽に出陣し、義家は郎党を真衡の館を守備させます。家衡・清衡はこれを知らずに真衡館を攻撃しますが、義家自らの出陣もあって大敗を喫し、命からがら逃げだすありさまでした。

ところが、出羽に出陣していた真衡は、途中病にかかって死去します。家衡・清衡は、開戦の責任を戦死した清衡の親族重光に転化して義家に降伏し、義家もこれを赦しました。そして、武則・武貞・真衡の三代にわたって清原惣領家が相伝してきた奥六郡司職を召し上げ、三郡ずつに分割して家衡・清衡に分け与えました。真衡の養子成衡は、真衡の死と共に清原氏惣領の地位を失ったようで、出羽の本拠地は家衡に属しました。

後三年の役

しかし、今度は家衡・清衡が対立し、主導権争いが起こります。

家衡は、まず密使を放って清衡を暗殺しようとしますが失敗し、ついで清衡の館を急襲し、妻子らを殺害しました。清衡は命からがら逃れ、義家に救援を求めます。

義家は家衡追討を決定し、追討の宣旨の発給を朝廷に申請するとともに、数千騎を率いて出羽の沼柵を攻撃しました。1086(応徳三年)秋のことで、義家の陸奥守の任期満了直前のことでした。

家衡は頑強に抵抗して、攻防戦も数ヶ月におよびます。その間に冬が訪れ、大雪や寒さで義家軍は多くの凍死者を出し、困難を極めました。この様子をみた家衡の叔父武衡は家衡に合流し、新たに築いた金沢柵を拠点として抵抗を続けました。

1087年(寛治元年)、京都で宮仕えしていた義家の実弟新羅三郎義光は、兄の苦戦を伝え聞いて、応援のために下向を請いましたが許されなかったので、兵衛尉の官を辞退して兄救援に向かいます。義家は弟義光(新羅三郎)の応援によって態勢を立て直し、同年9月に家衡・武衡の金沢柵を包囲します。義家が雁の列が乱れるのを見て敵の伏兵を知り、危ないところを免れたという有名な逸話はこの頃ことです。

兵粮攻めの末に11月14日、義家は金沢柵を攻め落とします。家衡は逃亡しようとして討たれ、武衡も捕らわれて斬られ、乱はここに決着しました。義家の出した勝報が京都に到着したのは12月26日のことでした。

私戦とされた後三年の役

朝廷は、義家の追討宣旨の要求に対して、「私戦」としてこれを認めなかったことから、義家への恩賞もありませんでした。これに関して従来は、義家が東国武士の信望を集めていて、その勢力が拡大することを恐れていたためと言われていますが、近年はこの説は否定されているようです。

この事件に対する義家の態度は、清原一族の内紛への介入で、義家の介入によって事件がさらに拡大させています。また、義家が国司として徴税を怠り、兵を集めることばかりに奔走したあげく、中央への納税の仕事も怠っていたようです。義家のこれらの行動に対して、朝廷が追討の宣旨を下さなかったのは当然といえば当然なわけです。

私戦とされた義家に恩賞はなく、義家は「今は無用」と家衡らの首を道に捨てて帰京し、配下の武士たちには私財をもって論功行賞を行いました。このことによって東国の武士たちは感激して、さらに義家に信頼を深めていくことになります。

一方、陸奥守の任を解かれて陸奥を去った義家にかわって、藤原清衡によって平泉を拠点に奥州藤原氏の時代が幕を開けることになります。

 

近年の義家研究

後三年の役において義家の動員した武力は前九年の役同様、東国武士を組織的に動員したとは言えず、両乱において河内源氏が頼った武力は、清原氏らの地元の武力や朝廷によって動員されたものが中心で、東国武士の比重は小さかったと言われています。

したがって、後三年の役における河内源氏は、都に拠点をもつ軍事貴族=京武者の盟主と言った立場で、東国武士の棟梁という通説には疑問が投げかけられているようです。東国武士の棟梁といわれのは、もうしばらく後のことのようです。

参考文献

竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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