足利義満は、約60年に及ぶ南北朝の動乱を集結させ、南北朝合一を成し遂げました。また、土岐・山名・大内といった室町幕府内の強大な守護大名の勢力を削減し、将軍権力の強化と幕府安定を成し遂げ、長く続いた戦乱の世に終止符を打ちました。
しかし、この義満の事業について、教科書などでは「サラッ」と触れられているだけです。
このような扱いでは、いつまでたっても室町幕府が鎌倉・江戸に比べて弱小という印象をぬぐうことはできません。
ということで、今回は義満の南北朝合一・守護勢力削減事業をお話ししましょう。
大内・山名の帰参
1363年(貞治二年)、2代将軍義詮の死の4年前のこと。足利直冬(尊氏の庶子で、直義の養子)を奉じて南朝方として中国地方で猛威をふるっていた強大な守護、大内弘世(周防・長門)と山名時氏(伯耆・因幡・美作・丹後・丹波)が相次いで幕府に帰順しました。幕府は、大内や山名と戦い続けるよりも、彼らの守護国を安堵した上で和睦する道を選んだのです。
しかし、この和睦は、幕府に大きな禍根を残すことになります。
長年にわたり、幕府・北朝に帰順してきた武士たちは「多く所領をもちたければ、ただ敵になればよい」と不平を言ったと『梅松論』は伝えています。また、この和睦は、幕府内に統制が難しい大守護の出現を意味していました。確かに、和平は得られましたが、室町幕府は内部に新たな危険をはらんだのです。
義満の後見・管領細川頼之の政治
義詮が没した1367年(貞治六年)。まだ幼い将軍義満を後見することになった管領細川頼之は、将軍の権威・権力を高める政策に心血を注ぐことになります。幕府に不満を持つ武士や強大な守護を従えるには、強い将軍が必要だったのです。
半済令
頼之は1368年(応安元年)6月、天皇家・摂関家などを除いた寺社本所領(地頭がいない一円所領は除く)に対し、下地中分の半済を認めました。年貢ではなく土地そのものを半分に分けて、領主(寺社)と武士がそれぞれを取り、相手方に立ち入ることを禁止するというものです。これは寺社に不利に見えますが、そうではありません。実際には武士の侵略が激しく、これを口実に農民も年貢を出し渋るなどしていたので、年貢の未納状態が続いていました。ですから、本所側はこれを歓迎したのです。こういう背景から、鎌倉時代の下地中分とは意味合いが異なります。
鎌倉時代の下地中分についての解説はこちら
南朝政策
また、南朝との和平工作も楠木正儀を窓口にすすめられており、1368年(応安元年)3月、後村上天皇が崩御するとさらに活発になりました。しかし、南朝を継いだ長慶天皇も主戦派だったことから工作は失敗し、南朝での立場を失った正儀は1368年(応安二年)年1月、幕府に降ります。
同年4月、観応の擾乱以来、徹底的に幕府に反抗してきた桃井直常(足利一門)が越中で挙兵しましたが、翌1369年(応安三年)には越前守護斯波義将によって鎮圧されます。幕府はついに北陸を完全に手中におさめました。
幕府にとって残る気がかりは、南朝の勢いが強い九州。頼之は1370年(応安四年)、新たな九州探題に今川了俊を任命してこれを派遣して制圧を図ります。
同年3月、北朝ではかねてから出家の意志を明らかにしていた後光厳天皇が緒仁親王に譲位し、緒仁親王は後円融天皇として即位します。しかし、後円融天皇の即位式に関わる費用を北朝側は調達することができず、頼之が幕命として京内外の土倉・酒屋に税を課し、また全国から銭を上納させて即位式を行いました。
尊氏・義詮の時代には、北朝はまだまだ政治的権威を有していましたが、義満の代になって幕府の安定が増せば増すほど、その権威の低下は著しくなりました。
ちなみに、この後円融天皇は、義満の有形無形の圧迫を受けて悲劇的な生涯を送ります。
1372年(応安六年)、楠木正儀が細川勢の支援を受けて河内天野の南朝行宮を攻撃し、長慶天皇は吉野に移ります。正儀は幕府側に下りて和泉・河内守護に任じられましたが、正儀に従わなかった楠木一族・土豪も多く、彼らの攻撃を受けて苦戦していたのでした。
反細川頼之派の形成と康暦の政変
義満の後見として幕府内で強い影響力を有していた、当時の細川氏の守護国は7ヵ国。さらに一族の多くが幕府の要職についたことから、幕府内での地位はかつての「執権北条氏」を彷彿とさせるものでした。
そんな細川氏に反抗する勢力も当然あらわれてきます。
頼之と五山の対立
頼之が五山の禅寺への統制を強めると、尊氏・義詮のブレーンだった夢窓疎石の後継者である春屋妙葩(しゅんおくみょうは)と対立します。
頼之が管領に就任した当初は春屋妙葩と組んで、延暦寺・興福寺などの伝統的権威から禅宗を守る方針をとりましたが、結果として禅宗を増長させることとなり、延暦寺衆徒による強訴などもあって方針を転換したのでした。このことが、頼之と春屋妙葩が対立する原因となります。
康暦の政変
1377年(永和三年)、斯波義将の分国越中で義将の守護代と国人の間で相論が起こり、敗れて太田荘に逃げ込んだ国人を義将の守護代が攻め入って討ち、さらに太田荘を焼き払う事件が起こりました。
太田荘の領主は管領細川頼之。逃げた国人は、まさか守護代が管領の領地まで攻め入ってくるとは考えていなかったのです。
この話を聞いた頼之は大いに激怒し、軍勢を集めて守護代を討伐しようとしました。当然、斯波義将も頼之に反抗。細川と斯波は対立し、幕府内の諸大名は細川・斯波両派に分れて激しく対立するようになります。
翌年になると、大和の土豪が反幕府で蜂起する事件が相次ぎ、それを鎮圧するために諸国から集まった軍勢の中で「反細川頼之」の運動が起こりました。その主謀者は斯波義将と土岐頼康。
そして、時を同じくして鎌倉公方足利氏満(基氏の子)が義満から離反しようと画策し、関東管領上杉憲春が自害する事件が起こりました。義満が氏満に援軍を要請したにも関わらず、上洛の途についている氏満の軍勢を途中で引き返させるほど、両者は険悪の仲となります。
この一連の幕府内部での確執のなかで、義満は頼之を支持していましたが、1379年(康暦元年)閏4月に反頼之派の圧力に屈して、ついに頼之の管領職を解きました。頼之は一族を率いて本拠地四国に下向。新たに管領になったのは斯波義将でした。
この細川頼之失脚にいたる事件を「康暦の政変」と呼びます。
義満の守護討伐
守護大名同士の抗争によって引き起こされた「康暦の政変」ですが、この政変によって将軍義満は父義詮が与えた頼之の後見という束縛を断ち切り、幕府における主導権を獲得していくことになります。
まず、康暦の政変で明確になったのは、将軍といえども有力守護の圧力に屈せざるを得ないということでした。したがって、守護の勢力削減が義満の当面の課題となります。
土岐康行の乱
1387年(嘉慶元年)、美濃・尾張・伊勢三国の守護土岐頼康が死去。義満は、その家督継承問題に介入し、頼康の養子康行には美濃・伊勢の守護を任じ、尾張守護には康行の実弟満貞に与えます。翌年、義満の思惑どおりに土岐氏は分裂し内紛を起こしました。1390年(明徳元年)閏3月、義満は軍勢を派遣して康行を討伐し、土岐氏の勢力を削減することに成功します。
明徳の乱
次に、義満の標的になったのは山名氏。山名氏は、時氏が幕府に帰順したときは5カ国の守護でしたが、さらに但馬・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備前の6カ国を加えて11カ国を領するまでに成長していました。一族で11カ国を領していたことから「六分一衆」と呼ばれました(日本全国66ヵ国の6分の1の意味)。
1372年(応安五年)頃、時氏は没していて、その息子たちがそれぞれ二国ずつを領して、惣領家は嫡男師義が継ぎ、時氏の末子時義が師義の養子になる形で継いでいました。
1389年(康応元年)に時義が没しました。義満は、時義の兄氏清と師義の子満幸に命じて、時義の子時煕・氏幸を追討。時煕兄弟は敗れ、その分国は氏清・満幸、さらに足利一門の渋川満頼に与えられました。とくに氏清は、幕府のお膝元山城の守護に任じるという重用ぶりでした。
ところが、2年後の明徳二年)3月、義満は管領斯波義将を解任し、四国から細川頼之を呼び戻して、その養子頼元を管領に任命します。義満は、頼之と謀って山名満幸を追放し、今度は時煕・氏幸兄弟の罪を許しました。激怒した満幸と氏清は軍勢を率いて京都に進撃。
そして、12月26日。京都西北の内野(現・千本今出川界隈)で山名勢と大内義弘・細川頼之・畠山基国らの軍勢、さらに奉公衆と呼ばれる将軍直轄親衛隊2千騎が激突。山名氏清は戦死、満幸は敗走して壊滅しました。
義満は最大の守護大名の勢力を削減するとともに、直轄軍の精強さを印象づけて、将軍の権威を飛躍的に高めたのでした。この戦乱を「明徳の乱」と呼びます。
なお、氏清は京都上七軒にある千本釈迦堂(大報恩寺)に義満によって丁重に葬られています。義満は氏清を利用したことに後ろめたさがあったのかもしれません。
1392年(明徳三年)3月に細川頼之が死去。翌年6月、斯波義将を召し返して管領に任命します。もはや、義満は管領や守護の影響を受ける将軍ではありませんでした。
義満にとって次なる課題は南北朝の合一でした。
南北朝合一
南朝はすでに振るわず、最後まで幕府に頑強に抵抗していた九州も、九州探題今川了俊の活躍によって衰退に向かい、ついに懐良親王が1383年(永徳二年)に没するに至って、その勝敗は決していました。
さらに、1383年(応永元年)に主戦派の長慶天皇が譲位し、和平派の後亀山天皇が即位すると、再び北朝合一は現実味を帯びてきました。
実力的にはもはや取るに足らない存在になっていた南朝でしたが、幕府に刃向かう武士は決まって南朝に降伏し、朝敵討伐の名のもと抵抗し続けることから、南朝との和平は重大な問題だったのです。
さらに、南朝が三種の神器を有していることから、北朝の正当性に疑問がもたれることも、幕府の権威に関わる問題でした。北朝に正当性がないとなれば、その北朝に任命される将軍も幕府も正当性がないことになるからです。義満の実力が圧倒的になったとはいえ、この問題が解決されない限り真の支配者にはなり得なかったのです。
1392年(明徳三年)、義満の信任の厚い公家吉田兼煕が南朝の代表と交渉を重ねたすえ、次の3条件で両朝の合体が実現する運びとなりました。
- 後亀山天皇(南朝)は、譲国の儀(上皇が皇太子に位を譲る儀式)をもって後小松天皇に三種の神器を譲る。
- 以後、皇統は持明院(北朝)・大覚寺(南朝)が交互に即位する(両統迭立)。
- 諸国の国衙領(国司が領主となる公領)は大覚寺統が、長講堂領は北朝が領有する。
同年閏10月2日、後亀山天皇ら南朝方の人々は京都嵯峨大覚寺に入りました。わずか50名程度だったと伝えられています。
3日後の10月5日、三種の神器のみが後小松天皇のもとに運ばれました。3条件の譲国の儀は行われず、両統迭立も守られませんでした。3の国衙領の領有も武士たちの侵略によって年貢が未納状態となって意味をなさず、後亀山上皇は困窮することになります。結局、後亀山上皇は吉野に潜幸し、後南朝と言われる政権となります。
初めから義満は、両朝合一の約束を守る気などさらさらなく、南朝を吸収して解体してしまうつもりだったのでした。
応永の乱
今川了俊の解任
1395年(応永二年)8月、九州制圧の功労者で九州探題の今川了俊が京都へ召還され、突如解任されました。了俊は大内・斯波両氏の陰謀であると弁じていますが、義満の意向が大きく働いたと言われています。ほぼ平定された九州を直接的に幕府に組み込むには、九州で名声をはせる了俊が邪魔になったからと言われています。後任の探題には渋川満頼が就任しました。
1397年(応永四年)12月、筑後の少弐貞頼、肥後の菊池武朝らが渋川満頼に反抗。幕府は大内義弘・大友親世らを満頼の指揮下につけ、少弐・菊池追討を命じました。義弘に代わって出陣した弟満弘が戦死すると、義弘は自ら出陣して少弐を討ちます。こうして、九州は鎮圧されました。
応永の乱
義満は、義弘に上洛を命じますが、義弘は周防に戻ったまま動こうとしません。これには、義満は義弘に少弐・菊池の追討を命じる一方で、少弐・菊池にも義弘討伐の密命を下していたという噂が流れていたからでした。
1399年(応永六年)10月になって、義弘は数千の兵と共に海路で周防を出発し、分国和泉の堺に入ります。このときすでに義弘は、山名時清(氏清の子)・土岐詮直・京極秀満らの義満にうらみを抱く武士たちと合わせて挙兵する準備を整えていました。
義満は、禅僧絶海中津を遣わして義弘の真意を正しましたが、義弘は今まで自分の忠節・功績と義満の不実をあげ、政道を正すため鎌倉公方足利満兼と共謀して挙兵したと語ったといいます。
報告を受けた義満は11月29日、大軍をもって堺を包囲攻撃しました。義弘は籠城して抵抗し、満兼の上洛と味方の蜂起を待ちましたが、満兼軍は鎌倉を出陣したものの関東管領上杉憲定に諫言され西進できず、各地の蜂起も散発的であっけなく鎮圧されました。
12月21日、ついに堺は陥落し、義弘は討死。弟の弘茂は降参して許されました。これを応永の乱といいます。ここに幕府を脅かす最後の大守護大内氏の勢力が削がれたのでした。
日本国王義満
南北朝動乱に終止符を打った義満は、かつて尊氏や義詮が戦乱の収拾過程において有力守護大名に対してとった協力的態度を一変させて、彼らに臣下として将軍に服従することを求めました。将軍権力を絶対とする集権体制を目指したのでした。
土岐・山名・大内はその仕組みの中で最も削ぐべき対象だったのです。特に、大内は早くから対外貿易で富を築いており、了俊もまた九州で貿易をおこなっていました。義満が大内を討ったのもこの辺りに意図があったと思われます。
応永の乱から1年半後の1401年(応永八年)5月、義満は対明貿易のために使節を派遣します。明皇帝に送った国書には、「日本准三后道義」とあり、1403年(応永十年)の国書には「日本国王臣源」となって明に朝貢します。義満の意図は定かではなく、今も議論がなされていますが、公武の頂点に君臨する「日本国王」を称するようになったのです。
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