1203年(建仁三年)9月2日、北条時政らによって、2代将軍源頼家の外戚として勢力を誇った比企氏が滅ぼされました。それから5日後の9月7日、北条政子によって源頼家が出家させられます。そして、9月15日、源実朝は12歳で3代将軍に就任しまた。
実朝の公家化
1204年(元久元年)2月に、所領に関する所務はすべて頼朝時代の先例通り行うことが幕府から示され、幕府の基本政策が変わらないことが強調されました。
4月には、御家人がもっている頼朝自筆の文書を提出させて、幕府はその控えをとっています。
これは、頼家が将軍になったときの反省から行われたと考えられます。
将軍になった源頼家は将軍新政を目指し、幕府創設以来の御家人よりも、頼家側近武士を優遇した例があります。これには、さすがの有力御家人が反発し、頼家は直接訴訟を裁断することが禁じられ、13人の合議体制へ移行しました。
幕府は、頼朝の方針を踏襲することを御家人に宣言することで、頼家追放と実朝体制への移行期における御家人の動揺を抑えようと考えたのです。
しかし、これは実朝が将軍として何もやることがないことを意味しています。頼朝の先例通りに行うこと、幕府機関がすでに安定的に機能していることから、実朝が何か率先せずとも幕政はうまく運営されていくのでした。
実朝が和歌や蹴鞠に夢中になるのも仕方がなく、逆に幕政が安定したからこそ夢中になれたのかもしれません。
さらに、坊門信清の娘を娶ったことで、実朝の公家志向はさらに高まります。
実朝は特に和歌に夢中になっています。1205年(元久2年)、後鳥羽上皇の命令によって藤原定家が「新古今和歌集」を編纂すると、定家の弟子である内藤朝親に命じてこれを入手しています。
1208年(承元二年)5月、実朝夫人の侍である有職家兵衛尉清綱が京都から鎌倉に下向し、「古今和歌集」の一部を進上しているほどです。
このように、実朝の和歌に関するエピソードはたくさんありますが、和歌を通して実朝と後鳥羽上皇の結びつきは強くなっていきます。
異例のスピード出世
後鳥羽上皇は、幕府を朝廷の軍事機関として取り込もうと考えていたのではないでしょうか。
その方策として、朝廷の常套手段である官位での籠絡が始まります。
源義経は後白河法皇のこの策にはまりますし、源頼朝は警戒しました。
後鳥羽上皇は実朝の官位昇進を早めます。
1216年(建保四年)6月、権中納言。
1218年(建保六年)正月、権大納言。
同年3月、左近衛大将。
同年10月、内大臣。
同年12月、右大臣まで昇進します。
まだ27歳の若さです。
当時、関白近衛家実と太政大臣三条公房がともに40歳。左大臣九条道家が29歳ですので、摂関家と並ぶスピード昇進です。当然、武家には例のない早さの昇進でした。
昇進が早すぎることを懸念した北条義時は、大江広元を通じて実朝を諌めました。
それに対して実朝は、
源氏の正統は自分で途絶えるのから、昇進して源氏の家名を上げるくらいよいではないか?
と、答えたという逸話が残されています。
公家化していく実朝に、一般御家人は不満を抱いていくようになります。
実朝は歌や蹴鞠を本業として、武芸はすたれてしまった。女性が中心となって勇士は不要になったのか?謀叛人から没収した土地は武士に与えられず、若い女房に与えられている
と、長沼宗政が不満を述べる記述も残されています。
実朝暗殺
1219年(承久元年)1月27日。実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われました。その日は晴れていましたが、夜になって降り続いた雪は60㎝近く積もったといいます。
午後6時頃、八幡宮に向けて出発した実朝の行列は、勅使坊門忠信、西園寺実氏、平光盛や御家人1千騎という盛大なものでした。
実朝が八幡宮の楼門を入ったとき、実朝の剣をもってお供をしていた北条義時が突然気分が悪くなり、剣を源仲業に渡して八幡宮を退出し、屋敷に帰ってしまう出来事が起こります。
それでも、儀式はつつがなく執り行われ、その帰りのことでした。
実朝が居並ぶ公卿の前を通り過ぎようとしたとき、突如、頭巾をかぶった法師が実朝に走り寄りました。
その瞬間、実朝に飛び乗り「親の仇はこうやって討つものだ」と叫びながら切りつけ、雪の中に転倒した実朝にとどめを刺して首をはねました。
さらに同じように頭巾をかぶった者が3、4人が現れ、供の者を追い散らし、実朝の前で松明を振っていた仲業を義時と勘違いして切り殺します。
鳥居の外には1千騎もの御家人がいましたが、あっという間のできごとに誰も何もできませんでした。
犯人は鶴岡八幡宮の別当で、故頼家の息子公暁であることは明らかでした。
公暁は、急ぎ三浦義村に「今はわれこそ大将軍である。これからお前のもとにいく」と連絡したといいます。
ところが、義村はすぐに義時に報告し、実朝の首をもって一人でやってくる公暁を迎討ちにしました。
通説では、義時が実朝暗殺を計画し、事件の直前、気分が悪くなったと称して現場から逃れたものと言われています。
永井・石井説によれば、義時の代役を務めた源仲業は、たまたま身代わりとして殺されたことになり、黒幕は北条氏に対抗する三浦義村ではないか?義時の暗殺失敗を知った義村は、実行犯の公暁を殺して北条氏に忠誠を誓ったのではないか?としています。
永井・石井説の方が、通説より説得力があるように思います。なぜなら、頼家追放と比企氏の乱は、北条氏にとって実朝という「駒」がありました。しかし、今回のように、実朝がいなくなると北条氏に「駒」は残されていません。
実朝の死は、北条氏に何のメリットももたらしません。
この事件の真相は今に至っても判明していません。
皆さんは、どう推測されますでしょうか?
鶴岡八幡宮の石段脇に「公暁のかくれ銀杏」がありましたが、2010年に強風で折れてしまいました。
公暁は、この銀杏から飛びだし実朝を暗殺したと言われていますが、「愚管抄」「吾妻鏡」にはこの事は書かれていないことから、江戸時代になってからの創作と言われています。
摂家将軍の誕生
1219年(承久元年)2月13日、北条政子は二階堂行村を上洛させ、
将軍支配に属する武士も今は多く住み着いて数百人ほどになりましたが、主人を失って動揺しています。ここで宮将軍が鎌倉に下向してこそ、平穏無事になりましょう
と、後鳥羽上皇の皇子の下向を要請しました。
実は、幕府は実朝が暗殺される前から皇族将軍の擁立を考えています。
1218年(建保六年)、北条政子は北条時房・二階堂行光を従え、熊野詣と称して上洛。後鳥羽上皇の乳母で、後鳥羽院政の実力者である卿二位藤原兼子(ふじわらけんし)としばしば会談しています。
北条政子は、藤原兼子を取り込むことに成功し、藤原兼子は後鳥羽上皇に頼仁親王を次期将軍に推挙しました。当初、後鳥羽上皇は了承していましたが、実朝が暗殺されたと知るや態度を硬化させ、約束を反故にします。
「愚管抄」によれば、
皇族を将軍として東下することによって、どうして将来、この日本が二つに分裂する原因をつくることができようか。皇族でなければ、摂政・関白の子であっても申し出に従うとしよう。
と、後鳥羽上皇は答えたといいます。
朝廷の一機関にすぎない幕府の将軍には、摂関家で十分と後鳥羽上皇は考えたのではないでしょう。
しかも上皇は、幕府の申し入れを拒否したあと、寵愛の伊賀局亀菊の荘園である摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職の解任すべき院宣を下し、幕府に判断を迫っています。
幕府は、上皇からの要求があって4日後には拒否の態度を明らかにし、3月15日、北条時房を使者として1千騎の軍勢を引き連れて上洛させます。
幕府の朝廷に対する示威行動です。
時房は軍事力を背景に、地頭職解任拒否と皇族将軍の下向を迫りました。しかし、後鳥羽上皇からすれば、地頭職解任を拒否された以上、皇族将軍の下向を認めることはできませんでした。
義時は、皇族将軍の下向をあきらめ、左大臣九条道家の子三寅(みとら)を迎えることに決定します。半年以上も、鎌倉殿不在という事態を避けたかった幕府の意向が見えます。
三寅は西園寺公経の外孫で、公経の妻は頼朝の妹と一条能保との間に生まれた娘でした。頼朝の血筋を引いている摂関家から将軍が選ばれることになったのです。
1219年(承久元年)7月19日、実朝暗殺から半年後に2歳の三寅は鎌倉に入ります。鎌倉に入ると、まず義時邸に入り政所始めの儀式が執り行われ、三寅が幼少の間は北条政子が後見として政治を見ることになりました。尼将軍政子の誕生です。
三寅は、元服して藤原頼経と名乗ります。頼経に征夷大将軍の宣旨が下るのは1226年(嘉禄二年)正月27日で、承久の乱から5年後のことでした。
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