1219年(承久元年)1月27日、3代将軍実朝は、故2代将軍頼家の子公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺されました。
後鳥羽上皇は、幕府のトップたる将軍実朝が暗殺されたのですから、将軍=鎌倉殿を失った御家人はさぞかし動揺し、幕府は混乱すると考えたに違いありません。
確かに将軍の座を狙って、阿野全成(源義経の実兄)と阿波局(北条時政の娘)の子である阿野時元らが挙兵するなど関東の世情は穏やかではありませんでした。
しかし、実朝が暗殺されてから半年後には、幕府は摂関家の藤原(九条)道家の子三寅(のちの頼経)を鎌倉殿に頂き、幕府に大きな動揺はみられませんでした。
進む幕府討伐計画
それにも関わらず・・・
- 後鳥羽上皇とその周辺
- 皇子六条宮と冷泉宮
- 源実朝の妻の実家の坊門忠信・信成
- 順徳天皇の姻戚高倉範茂・範有、藤原秀康・葉室光親
を中心に、幕府討伐の機運が高まり、土御門上皇や親幕派公卿を疎外しました。
1221年(承久三年)4月、順徳天皇が子の仲恭天皇に譲位して上皇になると、自由な立場から討幕運動に専念するようになります。
また、後鳥羽上皇の皇子尊快法親王(そんかいほっしんのう)が天台座主となり、比叡山の僧兵の動きを統制することになりました。
このように、着々と討幕の準備が整ったところで、後鳥羽上皇は幕府の京都出先機関である京都守護の伊賀光季・大江親広を呼び出し、味方につくようにせまります。
政所別当大江広元の息子親広は、やむなく上皇の命令に従いましたが、北条義時の後妻の兄弟(つまり義時の義兄弟)にあたる伊賀光季は拒否しました。
後鳥羽上皇挙兵
1221年(承久三年)5月14日、後鳥羽上皇は鳥羽離宮内の城南宮で、流鏑馬ぞろいと称して、諸国の武士や僧侶を招集しました。
かねてからの計画どおり、北面の武士・西面の武士、畿内周辺の本所荘園の地頭などの武士、京都大番役のために守護に引率された在京御家人など約1千騎が集結します。上皇側は、親幕派の公卿を捕らえて軟禁しました。
5月15日、まず京方は上皇の命令を拒否した京都守護伊賀光季の館を攻撃して滅ぼします。そして、義時追討の院宣・宣旨が全国の守護・地頭たちに発布されました。
同時に、関東有力御家人を幕府から離反させることを目的として、近臣の藤原秀康は所従(下人)押松(おしまつ)を鎌倉に派遣し、三浦氏をはじめとする有力御家人に院宣を伝えようとしています。
事態の急変は、伊賀光季や西園寺公経の家人によって鎌倉にもたらされました。幕府は、後鳥羽上皇の討幕の動きをつかんでいました。
5月19日、藤原秀康の所従押松は捕らえられ、所持していた院宣はすべて幕府に押収されました。幕府にとっては万事休すです。院宣を押収することで、幕府は関東御家人に対して後鳥羽上皇が院宣を発していることを隠すことができたのです。
しかし、討幕の院宣がくだされることは幕府にとっては衝撃が大きすぎました。
なぜなら、とくにこの頃は、幕府にとって天皇・朝廷の権威は大きく、関東御家人にとって重くのしかかる存在でした。
鎌倉殿に与えられる征夷大将軍・御家人の官職など全て朝廷が任命権者です。また、形式的ですが幕府の政策は、すべて朝廷の認可によって行われていました。
そして、北条義時がもっとも心配したのは、御家人が幕府ではなく朝廷に忠誠を誓うのではないか?ということでしょう。
しかし、その心配は杞憂に終わります。三浦義村をはじめとする有力御家人は幕府へ忠誠を誓い、ぞくぞくと将軍御所に集結してきました。
もちろん、院宣が関東の御家人に届いていたら、どうなったかわかりません。
そして、将軍御所に集う御家人を前に、尼将軍北条政子は現代にも伝えられる名演説を行いました。
皆、心を一つにして聞くがよい。これは私の最期の言葉です。
亡き将軍頼朝公が朝敵(木曽義仲や平家)を征伐して幕府を開いて以降、お前たち御家人たちは官位や俸禄を手に入れることができた。その恩は山より高く大海よりも深い。その恩に報いなければならない気持ちがお前たちに無いわけないでしょう。
ところが今、逆臣の計画によって、後鳥羽による討幕命令が下されてしまった。名を惜しむ者は早く逆臣藤原秀康や三浦胤義を討ち取って、(源氏)三代の将軍が残した遺産を受け継いでほしい。しかしながら、京都の後鳥羽上皇に味方したいと思う者があれば、今すぐ申し出てほしい。(意訳)
この演説は幕府成立以前、国司の思うがままにしいたげられてきたみじめな時代を御家人に思い起こさせ、御家人であれば幕府を守るのは当然という心理状態に変えていったことでしょう。
武田信光が政子に味方する旨を表明すると、誰ひとり異議を唱える者はいなかったといいます。
こうして、朝廷側の期待に反してほとんどの関東御家人は幕府から離反することはありませんでした。
この演説のあと、幕府の首脳会議が行われます。はじめは箱根足柄の関を守って戦うべきという意見が主流でした。ところが、大江広元が京へ進軍するべきという積極策が提言されると、京都への出撃が決定します。
大江広元はかつて、北条時政から梶原景時や比企能員討伐の相談を受けたときは「兵法に詳しくないから」と、回答をごまかした経緯がありますが、今回は積極的です。
坂井孝一著の『承久の乱』では、大江広元が積極策を低減した理由として、上皇側に追討使が選ばれていないことから、京方の兵の準備は整っていないと判断したからではないか?と指摘しています。
鎌倉方出撃
5月22日から25日にかけて、遠江・信濃以東の15か国の御家人に動員命令が下され、幕府軍は出陣します。
軍容は以下の通りです。
東海道軍:大将軍は北条時房・北条泰時・北条時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱で、その数10万騎。
東山道軍:大将軍は武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光で、その数5万騎。
北陸道軍:大将軍は北条朝時・結城朝広・佐々木信実で、その数4万騎。
総勢19万騎の軍勢が三手に分かれて進軍を開始しました。
5月15日に義時追放の院宣・宣旨が出されてから、わずか10日で幕府は軍勢を集結し、京都をめざして進軍を開始したのです。
この素早い幕府側の対応に、朝廷はおどろき狼狽したことでしょう。
6月3日、京方は美濃・尾張の木曽川沿いに主力軍を展開して鎌倉方を迎撃する作戦を立てます。ところが、5・6日の間に鎌倉方の東山道軍の攻撃を受け京方は退却しました。
京方敗北が朝廷に伝わると、都は大騒ぎになり、都の住人が逃げ惑うありさまだったといいます。都の混乱ぶりが目に浮かびます。鎌倉方19万が押し寄せてくると聞いて、安心できる者は誰一人としていないでしょう。
後鳥羽上皇はさらなる防戦について会議を開きましたが、比叡山の僧兵は味方にならず、残る全兵力を瀬田・宇治川に派遣することになりました。
瀬田川・宇治川は6月の長雨で増水しており、京方はすべての橋を破壊して、鎌倉方の進軍を阻みました。
6月13日、鎌倉方の攻撃が開始されましたが、京方の激しい抵抗にあい多数の戦死者・負傷者を出し苦戦を強いられます。
6月14日、宇治川の浅瀬を発見した鎌倉方は強引に川を渡り始め、ついに宇治川を突破します。宇治川を突破された京方は総崩れとなり、鎌倉方は瀬田川も突破します。
6月15日、幕府軍は入京し、朝廷方についた武士の屋敷は焼き払われ、各地の寺社に捜索の手が伸びました。
後鳥羽上皇は、北条泰時に特使を派遣し、
- 討幕の計画は謀臣が行ったことで自分の意志ではないこと
- あらゆる幕府の要求に応じるべきこと
- 北条義時を追討する院宣の取り消すこと
- 藤原秀康・三浦胤義らを追討すべき院宣を発布
- 院の御所の守護を鎌倉方に命ずるべき院宣の発布
することを申し入れています。
6月16日、北条泰時と叔父時房は、六波羅の北と南の館に入り、京の占領行政を開始します。幕府軍が鎌倉を出発して20日ほどで決着がつきました。
ちなみに、北条泰時と時房が六波羅の北と南の館に入ったことがきっかけで、後に設置される六波羅探題を北方・南方と称するようになります。
戦後処理と朝幕逆転
鎌倉の北条義時は、泰時からの戦勝報告を受けるとすぐに乱後の処置を指示しています。首謀者に対する処分は非常に厳しいものでした。
幕府によって、後鳥羽院政は廃止され、仲恭天皇は廃位、後鳥羽上皇の兄行助法親王の子で10歳の後堀河天皇が即位します。
治天の君には行助法親王が選ばれます。行助法親王は後高倉院と称して院政を開始しました。天皇に即位したことがない皇族が院政を行うという異例の措置がとられます。
そして、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に配流されました。
土御門上皇は、乱には全く関わっていませんでしたが、父親の後鳥羽上皇が配流されたのに自分が都にいることは忍びないとして、自ら進んで土佐国におもむきました。
ところが、幕府から「まあまあ、そう意固地にならないでください。土佐まで行く必要ないですよ」ってことで阿波国にとどまっています。
このように、三上皇が配流されるという日本史史上未曽有のできごとがおこったのでした。
さらに、
- 後鳥羽上皇の皇子六条宮は但馬国、冷泉宮は備前に配流
- 院の近臣藤原信能・葉室光親・高倉範茂ら6人は処刑
- 坊門忠信は故実朝の妻の兄ということで助命され、越前国配流
京都守護でありながら京方に加わった大江広親は、京方にいたった事情が認められておとがめなしとなりました。
他の御家人で朝廷方についた者の大半は処刑され、その所領は没収されました。
また、後鳥羽院政の経済的基盤となった長講堂領・八条院領などの荘園はすべて幕府に没収されました。その後、後高倉院に寄進されますが、「幕府が必要になったら返却するように」という条件をつけています。
これは院の荘園の最終的支配権は幕府が掌握し、院政の経済基盤が幕府の支配下に置かれた歴史的瞬間なのでした。
つまり、院の経済基盤を幕府が握ったことで、朝幕の力関係が完全に逆転したのです。
参考文献
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