北条泰時は、祖父時政・父義時のようにライバル御家人を滅ぼすことで北条氏の地位をあげるのではなく、御家人・官僚から協力を引き出すことで地位を高めていった執権といえます。
泰時は御家人や官僚の協力体制を整えて評定衆を設置し、執権の地位を高めましたが、それは彼の立場が当初は弱いものだったからです。
しかし、その協力体制を整えたことで、朝廷や寺社といった旧来の勢力に対して強硬策をとることを可能にしました。
時房の死と政所別当の増員
1240(仁治元年)正月、泰時の最大の協力者で叔父の時房が死去します。享年66歳。泰時の死の2年前のことでした。
時房は執権を補佐する連署と呼ばれるポストに就いていましたが、時房死後の後任は補充されませんでした。
1240年(仁治元年)に発給された幕府政所下文の別当は泰時1人だけの署名しかありません。
ところが、翌年の1241年(仁治二年)以降に発給された政所下文の別当は、泰時を始めとして、中原師員・藤原親実・足利義氏・長井泰秀・北条朝直・安達義景の7名に増員されています。
政所別当が7名も増員することは例のないことで、この後にもありません。しかも幕府の重鎮だった北条時房死後に増員しています。
増員された7人ですが、足利義氏は泰時の従兄弟、北条朝直は叔父の時房の次男で泰時の従兄弟です。また、安達義景は泰時の姻族です。中原師員は官僚出身で、義景とともに評定衆に就任しています。藤原親実は不明な点が多いのですが、将軍頼経の側近として雑務を担当していることが吾妻鏡に記されています。頼経が将軍職を辞任した1244年(寛元二年)以降、吾妻鏡から親実の姿はなくなっています。
このように、7人の別当は、泰時・朝直の北条氏と泰時の姻族が中心で、それに官僚が加わったことがわかります。
この政所の体制にも、北条氏と官僚、安達・足利という有力御家人の協力体制が構築されていることがわかります。
執権就任時から有力御家人の協力体制を築いてきた泰時ですが、時房没後も新しい協力体制を構築し、幕政を指導したのでした。
泰時の死と執権職をめぐる内紛?
1242年(仁治三年)6月15日、泰時が没しました。享年60歳。法名は観阿(かんあ)。
泰時死後、先代義時が没したあとに後継ぎ争い(伊賀氏の変)が起きたように、北条氏内部で争いが発生したと考えられています。どのような後継ぎ争いが起こったのか、明らかになってはいません。
なぜなら、鎌倉幕府の詳細な記録である「吾妻鏡」においてこの部分が欠けているからです。
それでは、なぜ後継ぎ争いが起きたと推測できるのかというと、京都の公卿で民部卿平経高の日記「平戸記」にそのことをうかがい知ることができる記述がなされているからです。
1242年(仁治三年)5月13日、泰時の病の噂は平経高にもたらされました。
日記によると、4月27日に泰時は発病。5月6日ごろに将軍頼経に出家を願い出て許されています。
この噂を聞いた京都在住の御家人たちが騒ぎ始め、六波羅探題の北条重時が時盛とともに鎌倉に下向します。
5月9日、泰時が出家すると、その被官50人余りが同時に出家。
5月10日、日ごろから泰時と不仲だった弟の名越朝時が出家したのですが、朝時の出家は平経高にとって気がかりだったようです。
実は、朝時の祖父の北条時政は、自分の跡を息子の義時ではなく、孫にあたる朝時に継がせようとしていました。そのことが原因で義時と朝時父子の仲が悪かったと言われ、泰時とも仲が悪かったというわけです。この話は「得宗北条氏と名越北条氏~争いの始まりから決着まで」で詳しく解説しています。
5月15日、泰時の従兄弟足利義氏も出家したことが「鎌倉年代記」に記されています。
5月20日、関東にて合戦の計画が発覚したという噂があり、京の内裏近辺が騒がしくなります。
そして、幕府は東海道各地の関所を守護するように御家人に命令したので、京都からの使者は足止めされ、鎌倉に下向することができませんでした。
6月20日、鎌倉の使者下条兵衛尉が六波羅に到着し、6月15日に泰時が死去したことを伝えました。泰時の死後、騒動が起こったがすでにおさまったとのことでした。
以上が泰時死去の前後の話です。京都の貴族が書き記したものですので、噂や誤報もあるでしょうから全てが事実とは言えません。
しかし、泰時の2人の息子時氏・時実はすでにこの世になく、時氏の子で泰時からみれば孫にあたる経時・時頼はまだ若かったことから、後継者争いが起こっても不思議ではありません。若い経時・時頼に対して、朝時が立ちはだかった可能性は否定できません。
泰時のあとにつづいて朝時が出家したのも、泰時が朝時を後継者候補から除外することを世間に知らしめる意図があったのかもしれません。
朝時出家によって事態は収束し、経時が執権職を継承しました。しかし、連署は空席のままでした。
ただ、執権経時が発給した下文の政所別当は中原師員・藤原親実・長井泰秀・北条朝直・安達義景で、泰時のときと同じメンバーです。そこに経時が加わり6人で構成されています。足利義氏は別当から消えていますが、泰時を追って出家したため政治の表舞台から身をひいたのでしょう。
北条経時の幕府体制は、泰時の晩年と同じ協力体制を敷いていたと考えられます。
主要ポストを占めていく北条氏
別当が大幅に増員された1241年(仁治二年)は、評定衆での北条一族の人数が増加した時期です。
同年6月、評定衆は北条一族からは政村・朝直・資時の3人が加わっていましたが、新たに有時・経時が加わります。これに六波羅探題として、泰時の弟重時と時房の息子である時盛がいます。
このように北条義時・時房系の北条一族が幕府機構で確固とした立場を築きあげるようになってきました。これによって、執権の権力基盤は強固なものとなります。
北条一族内の惣領家と庶子家
泰時は公文所や家内法の制定によって惣領権を強化し、北条氏は一致団結することができました。
ところが、庶子家が幕府の要職に就任していく中で、若い経時が惣領の位置に就くと、強力な惣領権の行使は難しくなります。
結局、泰時が執権の座に就いた頃と同様に、北条氏は庶子家の分離・独立という一般武士団に見られる傾向が現れてきます。
しかも、北条氏の場合、惣領=執権職として幕政の担当者という立場が加わわるため、惣領家と庶子家の対立は一般武士団と比べると激しいものでした。
むすび
北条氏は他の御家人を圧倒して、幕府を私物化していくイメージが強いのですが、泰時や経時の時代は必ずしもそうではない状況がわかります。
北条一族内の勢力争いを制するために、他の御家人と協力していくというのは、まるで内政混乱に陥った戦国大名が、隣国と友好関係を築いていくのによく似ていますが、経時のあとの時頼以降になると得宗北条氏に権力が集中していきます。
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