1246年(寛元四年)、5代執権北条時頼は前将軍藤原頼経を京都に追放しました。頼経の側近として仕え、反執権勢力を構成していた有力御家人も幕府評定衆から追放されました。
この事件は宮騒動あるいは、寛元の政変と呼ばれていますが、この反執権勢力に三浦光村が加わっていたことが、得宗北条氏と有力御家人の三浦氏の関係に影を落としました。
三浦光村は、有力御家人だった三浦義村の四男で、兄泰村は義村亡きあとの三浦一族の棟梁です。
三浦義村の国司任官と北条氏
光村の父義村(??~1239)は、18歳で承久の乱に従軍し、1238年(暦仁元年)ごろ、若狭守に任命されました。
もっとも若狭国の守護は、1228年(安貞二年)以降、代々北条氏が掌握しており、泰村の国司任官は単なる名目だけのものであったと思われます。
それでも、一御家人の三浦氏が国司が任命されたことは非常に画期的なことでした。なぜなら、国司は源氏一門か源氏将軍の外戚である北条氏でなければ任官できませんでした。これは源頼朝の遺命でもありました。
1209年(承元三年)、和田義盛が三代将軍実朝に上総国司任官を希望したときも、実朝は母北条政子に相談し、「頼朝の遺命に背くことはできない」として却下した経緯があります。
ですから、三浦泰村の国司任官は三浦氏に対する北条氏の信頼の厚さをうかがい知ることができます。
もちろん、実朝暗殺や和田合戦のときの泰村の行動は不可解で、他の御家人から「三浦の犬は友も食らう」と罵りをうけたように、謀略家の側面があり油断できない人物でした。
しかし、彼の行動は一貫して執権北条義時を支持していたという点を見逃すことはできません。また、三浦義村の娘は北条泰時に嫁いでいたことから、北条氏と三浦氏の関係は非常に深いものでした。
安達氏と三浦氏と北条氏と
1247年(宝治元年)4月4日、安達景盛は出家先の高野山から鎌倉甘縄の義景邸に戻ってきました。
その後、彼は連日のように時頼邸を訪れるとともに、息子義景や孫義盛に対して、
三浦一族は武門に秀でているばかりでなく、傍若無人の行動が多い。このような状態が続き、道徳心もおとろえ、人情薄くでもなると、安達の子孫は発展することもできなくなるのではないだろうか。もう少し、思慮をめぐらすべきではないか。
と叱責しています。
5月6日、安達氏の謀略とは別に、三浦泰村の次男駒石丸が時頼の養子となる約束が成立します。北条氏と三浦氏の関係は平穏でした。
5月13日、5代将軍藤原頼嗣に嫁いでいた時頼の妹が亡くなりました。時頼は喪に服するため三浦泰村邸に移ります。
5月27日、時頼は泰村邸に三浦一族が集結し、軍備を整えているのを知って急ぎ逃げ帰ります。
5月28日、時頼は泰村一族周辺を探らせました。その結果、三浦一族は泰村邸内で軍備を整えるために、安房や上総の三浦氏所領から武具を船で運送し、謀反の準備が行われているとの報告がなされます。
6月1日、時頼は再度確認するため、佐々木氏信を使者として泰村邸に派遣しましたが、氏信の報告も泰村謀叛というものでした。
その後、近国の御家人が鎌倉に集結し、騒々しい日々が続きました。
そのような中で、三浦一族の佐原盛連とその息子が、幕府側に味方にするために時頼邸に集まりました。三浦一族が一枚岩ではないことがわかります。
6月4日、泰村に従う三浦一族や郎従がそれぞれの所領から、西御門の三浦邸に集結します。
その中には泰村の妹婿である常陸国の関政泰もいました。しかし、御家人は退散すべしの鎌倉の保々奉行人の命令が出されたため、政泰は常陸国に帰ろうとしていたところ、泰村追討を聞いたため、再び鎌倉に戻ってきています。
また、関政泰と同じように泰村の妹婿である毛利季光も、妻の言葉を聞き入れて、三浦氏に加担することに決めています。
佐原氏のように執権方につく者があらわれ、三浦一族は分裂の様相を見せていましたが、関・毛利氏などの姻族が三浦一族に続々と集まっていました。
これは関政泰や毛利季光のように三浦氏の姻族になると、仮に三浦氏側として参戦しなくても、三浦氏が敗れた場合、連座で所領を没収される可能性があったからと推測されています。
関氏や毛利氏の本意はわかりませんが、連座で滅ぶくらいなら合戦でひと旗挙げようと考えても不思議ではありません。
宝治合戦勃発
6月5日、鎌倉はますます騒々しくなっていきました。
時頼は万年右馬入道を泰村のもとに派遣、さらに腹心の平盛綱を泰村のもとに派遣しました。三浦氏に対して和平誓約書を送ったのでした。
この和平誓約書を受けとった泰村は大喜びしました。そもそも泰村は事を荒立てることを望んでおらず、今回の挙兵も光村ら一族の強硬意見に押されたためだったからです。
しかし、事態は安達景盛の介入によって急展開します。景盛は義盛・泰盛に対し、
泰村が時頼殿からの和平の書状を受け取ったならば、この後、泰村一族のみが独り驕り、安達氏が繁栄することは難しかろう。ここは運を天にまかせて、今朝、雌雄を決すべきであって、後日に延ばそうなどと思うべきではない。
と主張したのです。
そこで泰盛は、大曽祢長泰・武藤景頼・橘公義以下多くの軍勢を引き連れ、甘縄の館を出発しました。
甘縄から東へ、若宮大路の中下馬橋の北を通って鶴岡八幡宮の赤橋に打って出たあと、ここで鬨の声を上げるとともに筋替橋の北側を進みながら、鏑矢を飛ばし、御所内の御家人を動員して西御門の三浦邸を襲撃しました。
和平誓約書の到着後だった泰村は、この襲撃に驚きましたが、家子・郎従に対して防戦を命令します。
時頼の和平工作は、安達泰盛の攻撃よって失敗に終わりました。
三浦氏と安達氏・安達氏に引きずり込まれた幕府軍による本格的な戦闘が開始されようとしていました。
そこで時頼は、金沢実時に幕府警備を命じるとともに、弟時定を大手の大将軍とし、塔辻から攻撃を開始させました。これをきっかけに、あちこちの辻々で合戦が始まります。
しかも、毛利季光が三浦氏に味方したため、大規模な合戦に拡大されようとしていました。
そこで、時頼は北風が南風に変わったのをきっかけに、泰村邸の南側の人家に火を放ちました。火は強風にあおられ、その煙は泰村邸を覆いました。
泰村らは煙から逃れるために館を出て、頼朝の墓所である法華堂に立てこもることを選びます。
永福寺で戦闘をしていた光村は、兄泰村の意見に従い80余騎とともに、安達・幕府軍の中央を突破し、法華堂に集結しました。
三浦一族は、頼朝の絵像の前で往事を話し懐かしむとともに、極楽浄土を願って読経を行います。
そこに時頼の幕府軍勢が総攻撃を始めます。三浦方はよく防戦し、6時間にもおよぶ合戦が行われました。
しかし、ついに力尽きたため、泰村以下、主だった者276人、総計500余人が自害し果てました。そのうち、幕府の小侍所番帳に名を記されていた御家人は260人に達したといいます。
この戦いのことを宝治合戦あるいは、三浦氏の乱といいます。
宝治合戦のその後
有力御家人が滅亡していくなかで、頼朝以来その存在感を示し続けていた三浦氏も、わずか一日の合戦で滅亡しました。
死者を検視した直後、早馬が京都に派遣され、六波羅の重時に三浦一族滅亡を知らせるとともに、西国の地頭・御家人に対して泰村残党を誅罰すべき命令が下されます。
当時、三浦氏は本拠相模国のみならず河内国や伊予国の守護でもあったので西国には三浦氏ゆかりの者が多くいました。また、泰村残党の捜索は関東でも開始されました。
泰村の妹婿で、光村と同じく評定衆を除名され上総に追放となった上総流千葉秀胤は、同族の大須賀胤氏と東胤行に、上総国一宮大柳の館を攻撃されました。そのため、秀胤は館に放火し、一族挙げて自害したため上総氏も全滅します。
さらに泰村に味方した金持次郎左衛門尉が捕虜となり、前刑部権少輔大江忠成は毛利季光に味方したとして評定衆を除名、豊田太郎兵衛尉・次郎兵衛尉兄弟も捕虜となりました。
宝治合戦の戦死・捕虜の人々は『吾妻鏡』宝治元年六月二十二日条に記載されています。
むすび
宝治合戦の三浦氏滅亡によって、北条氏にとってライバル関係にあったと言える有力御家人は全て幕府から消え去りました。梶原景時の変から47年、時政から数えて5代執権時頼の時代のことでした。
ライバル御家人が消滅したことは、幕府内で北条氏をけん制する勢力がなくなったことを意味し、ここに幕府は合議体制から執権専制体制に移行したと考えられています。
しかし、どうなんでしょう。
『吾妻鏡』では、安達氏の謀略に引きずり込まれて、時頼は仕方なく三浦氏を滅ぼしたとしています。
ところが、もし北条氏と安達氏が示し合わせて三浦氏を討ったとしら・・・あり得ますよね。
北条時頼が和平を「エサ」に三浦氏の警戒心を解き、油断したタイミングで安達氏が三浦氏を急襲、そして時頼が法華堂で三浦氏に止めを刺したということも・・・。
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