北条時頼は、寄合という秘密会議や執権職を譲渡した後も実権を握り続けるなどして、自身の立場や北条得宗家を中心とした幕府政治を強化していくようになります。
その一方で、優れた御家人政策を行っていました。
つまり、北条一族内には強い態度で挑みますが、御家人には優しく対応したのです。
この時頼の御家人対策の中で注目されるのは、御家人の負担軽減と訴訟の能率化です。
御家人役が苦しかった御家人たち
将軍(幕府)と主従関係を結んでいる武士を御家人といいますが、御家人は所領の支配権を保証され(本領安堵)、戦で功績があれば、新しい所領が与えられます(新恩給与)。
そのかわりに、いろいろな義務を幕府に対して努めなければなりませんでした(奉公)。この多くの義務のことを御家人役と呼びます。
たとえば、戦が起これば幕府軍として従軍する必要がありましたし、将軍が各地におもむく時は、これにお供するのも御家人役でした。さらに鎌倉市中を警備したり、宿場町の警護という役もありました。
しかし、御家人にとって負担が最も大きかったのは、京都の御所と市中の警備でした。京都御所の警備は京都大番役、市中の警備は篝屋役と呼ばれます。
京都大番役という制度がいつごろから始まったかは、明らかではありません。おそらく、11世紀末から12世紀初頭の白河院政期に成立したものと考えられています。
各国の国司が、国内の武士を動員して行ないましたが、その勤務期間は古代律令期の衛士制の影響を受けて3年だったそうです。
京都大番役の期間は、源頼朝の時代になって6か月に短縮されました。
北条政子が承久の乱で行ったとされる名演説の中にも「京都へいって無理に働かされることがなくなったのは誰のおかげだ??(超訳)」がありますが、そのくらい御家人にとって京都大番役は大変だったのです。
1234年(文暦元年)当時、京都大番役が6か月勤務だったことは、幕府の追加法で確認できます。
そして、この6か月の京都滞在中の生活費や京都までの旅費などは、すべて御家人の自己負担でしたから、京都から遠い国から上京する御家人にとっては、この負担はさらに苦しいものでした。
そういう理由から御家人のなかには、この負担の一部を支配地の農民から押し取ったり、負担を転嫁する者も多かったと言われています。
その結果、農民や土地支配に関連して、御家人と荘園領主との間でトラブルが増加し、訴訟が増加する傾向にありました。
当時の武士社会の相続形態は原則として分割相続でしたから、この分割相続が代々行われていくと、惣領(本家)の実権が弱くなり、御家人役を負担することが困難な状況に陥っていたことも背景としてあります。
時頼の政策~御家人を増やす
そこで時頼は、三浦氏滅亡の直後、1247年(宝治元年)12月29日、京都大番役の従来の6か月勤務を3か月勤務に短縮し、御家人の負担軽減をはかりました。
また、1248年(宝治二年)1月、「西日本の名主や荘官のなかで幕府の御家人になりたい者は、守護にしたがって大番役を勤務すれば御家人と認める」政策を決定し、六波羅探題に命令しました。
名主や荘官は、朝廷や公家・寺社の所領を守る武士です。幕府に従う武士(御家人)ではありません。
この命令によれば、御家人になりたい名主・荘官が大番役として勤務する事になりますので、それまでの御家人の負担が減少することになります。現代風に言えば、残業がマックス状態で従業員が疲弊しきっているので、新たに従業員を増やすことをイメージしていただければわかりやすいと思います。
京都の夜警ともいえる篝屋役についても同様の措置がとられました。この篝屋役は京都市中の辻々に松明をともし、夜警を主たる任務とするものです。
本来、京都の治安は朝廷の検非違使(けびいし)の役割でしたが、承久の乱以降衰退していき、六波羅探題がこの役割を担うようになります。ところが、篝屋役を担当したのも、大番役のため上京した御家人でした。
当時、六波羅探題には西日本の御家人から選ばれた「在京御家人」が詰めていました。そこで時頼は大番役の御家人から篝屋役負担を除き、この在京御家人に負担させるようにしたのでした。
時頼の政策~引付制度の設置
このような御家人の負担軽減策は、御家人の訴訟面でもとられました。
御家人間、あるいは荘園領主・荘官との所領に関する訴訟は幕府創設以来、徐々に増加し、承久の乱以降はその傾向を強めました。
そのため、執権北条泰時は裁判の公平性をはかるために評定衆制度を創設し、御成敗式目を定めたのです。
しかし、従来の問注所や評定衆では十分にその効果を上げることはできなくなるくらい訴訟は増加の一途をたどりました
そこで時頼は、裁判の能率化と公正をはかるため、引付制度を創設したのです。
1249年(建長元年)12月、評定衆の北条政村・朝直・資時を引付頭人に就任させました。
さらに政所寄人から二階堂行方・行泰・行綱・大曾祢長泰・武藤景頼らを引付衆に任命し、三組(政村・朝直・資時)の引付方を組織したのです。
この引付制度は、はじめ三組にわかれていたので三方引付といったが、増加する訴訟に対処するため、1251年(建長三年)6月には六方引付となりました。
一時的に三方に減りましたが、1252年には五方引付となり、各方に6人の引付衆を割り当てることになりました。
引付制度により裁判の能率があがったとされ、御家人にとって大きな利益になりました。
現代でもそうですが、訴訟が長引けば長引くほど、そのための費用が増加します。
これでは、長期にわたり費用を負担することができない弱小御家人にとっては不利な状況となります。そのため、裁判を途中で断念する御家人が出てくることになります。幕府が最も重視していた公平な裁判が行われなくなるのです。
このように、引付制度は裁判の能率化と公平をはかったもので、結果的に御家人の負担を軽減させることになったのでした。
参考文献
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