日本の中世における外交史の中で、もっとも強烈な事件は蒙古襲来でしょう。文永・弘安の役と言われ、今となっては歴史の中に埋もれてしまいがちですが、江戸末期の開国・太平洋戦争(大東亜戦争)に匹敵する国難だったと言えるのではないでしょうか。
結論から申し上げますと、この蒙古襲来を契機に鎌倉幕府は瓦解の道を歩むのですが、皮肉にもこの時に幕府権力の最盛期を迎えるといっても過言ではありません。
それでは、蒙古襲来の前夜から見ていきましょう。
蒙古からの使者
1266年(文永三年)8月、蒙古皇帝フビライは主使黒的(こくてき)と副使殷弘(いんこう)に国書をもたせ、高麗と日本に派遣しました。
1266年(文永三年)11月、高麗の首都江都に到着し、フビライの国書を高麗国王に渡します。
1267年(文永四年)1月、高麗国王は蒙古の使者を案内して巨済島に到着しました。しかし、冬の日本海。そう簡単に渡航できません。蒙古の使者は日本への渡海を断念し、帰国していきました。
1267年(文永四年)8月、皇帝フビライは高麗国王に対して、再び日本への使者派遣を命令。9月、高麗国王は藩阜(はんぷ)を使者として、日本に出発させました。そして11月、藩阜は対馬に到着します。
1268年(文永5年)1月、対馬国守護宗助国を仲介として、筑前国の守護で鎮西奉行の少弐資能(しょうにすけよし)と会見します。
高麗国使の藩阜は、元国書と高麗国書を少弐資能に渡し、資能は鎌倉幕府の御家人ですから元国書と高麗国書を鎌倉に送ります。さらに、幕府はこの国書を朝廷に回送しました。
なぜ、幕府は朝廷に回送したのでしょうか?これは幕府が決断に悩んだとか面倒に感じたからではなく、外交は朝廷の仕事だったからです。
鎌倉幕府はあくまでも東国の地方政権と朝廷の軍事部門の集合体のようなものです。江戸の幕末、井伊直弼が朝廷に相談なく独断で開国したという話がありますが、外交は朝廷の仕事なのです。幕府が勝手に決めることは出来ません。幕府の意向が反映されるとしても朝廷の仕事です。そもそも、外交をしたことのない鎌倉幕府に、外交のノウハウがあるわけないのですが・・・。
朝廷は蒙古国書に対して返書を与えませんでした。つまり無視します。そのため、高麗の藩阜(はんふ)は日本の返事を得られないまま帰国していきました。
1268年(文永五年)3月、連署だった時宗は執権に就任し、執権政村が連署として、時宗を補佐することになりました。
その後も、蒙古や高麗の使者はたびたび日本に派遣されましたが、日本側はそのたびに返書を与えず、黙殺し続けます。
1271年(文永八年)8月、高麗国使が大宰府に到着しましたが、蒙古は高麗の日本説得を信用できなかったのか、高麗使節を追うように蒙古国使趙良弼(しょうりょうひつ)が筑前国今津(博多)に到着します。
この趙良弼は、強硬な姿勢で日本に返書を要求しました。吉田経長の日記「吉続記」には、日本が無視を続けるのならば武力行使もやむを得ないという脅しをかけてきたと伝えています。
幕府は西日本の守護に蒙古襲来に対処すべく、戦闘準備を命令し、さらに3つの策を講じます。
【異国の防御①】御家人の九州へ下向
1271年(文永八年)9月13日、九州に所領をもつ東日本の御家人に対して、自ら九州に下向して所領がある守護の指揮下に入り、「異国の防御」に専念するように命令を下しました。
【異国の防御②】防衛拠点の守護入替
蒙古国使(正確には、1271年に元に改名していたので「元使」)が来日し、その防御に苦心していたころのことです。
1272年(文永九年)2月、二月騒動が勃発しました。その詳細については不明な点が多いですが、反執権派を構成していたと考えられる時宗の庶兄(異母兄)時輔や名越流北条時幸・教時兄弟が抹殺されたのでした。
二月騒動記事
この事件を機に、西日本の守護が大きく入れ替わります。
北条時輔の就任していた伯耆国、名越流北条時幸が就任していた筑後・肥後・大隅三か国などの守護職が没収されました。そして、伯耆国には佐原頼連、筑後国は大友頼泰、肥後国は少弐資能(のちに安達泰盛)、大隅国は千葉氏が新守護に任命されました。
この新守護のなかで、佐原頼連は泰盛と関係が深く、後には肥後国の守護に泰盛が就任している点から、この体制強化の推進者は泰盛ではないか?と指摘されています。
【異国の防御③】御家人の経済的基盤強化
1272年(文永九年)10月、諸国の「大田文(おおたぶみ)」の作成が命じられました。これは、一国内の田畑の面積、支配者の名前を調査させ、まとめさせたものです。この土地台帳のような「大田文」に基づいて、御家人役が賦課されることになりました。
これも、東国御家人の下向・守護入替と同様に、今後予想される蒙古襲来に対処するための方策のひとつでした。
ところが、この調査が進むにつれ、御家人の所領が非御家人に売却されていたり、和与(無償譲与)という名目で渡っていることがかなり多いことがわかってきたのです。
1272年(文永九年)12月11日、幕府は、将軍から新たに給与(新恩給与)された所領を無償譲与で他人に渡すことを原則として認めず、譲与の理由のないものは没収することを決定します。
さらに1273年(文永十年)7月12日、御家人の所領回復に関する追加法を発布しました。
この追加法の内容は、
まず質に入れた土地であろうと、単なる抵当権が設定された土地であろうと、債権者の請求を停止させ、債務者である御家人が無償で所領を支配できることを認めたものでした。
次に、1257年(正嘉元年)以降、債権者が支配できることを幕府が認めた土地のであっても、債務者である御家人の異議申請を認めること
の二点からなっています。
つまり、御家人の無償土地回復に関する法令で、後の徳政令とほとんど同じ内容をもつものでした。
当時の戦は、御家人が自分の所領から軍費を用意しなければなりませんでした。幕府が用意してくれるわけではありません。
その御家人に所領が無いとなると、異国と戦うことは困難を極めます。我が国未曾有の危機を前に、幕府は御家人に土地を無償回復させ経済的基盤を強化し、異国の防御に備えさせたのでした。
1274年(文永十一年)8月、この法令によって引き起こされると予想される反発に対しては、守護や御家人に領内の「悪党」を厳重に取り締まるように命令を加えています。
つまり、幕府の政策に反発する者はすべて「悪党」として取り締まりの対象とみなしたのでした。
むすび
朝廷が、蒙古こと元の要求を無視し続けている間、時宗ら鎌倉幕府は戦闘準備を整えていきます。
二月騒動をその流れで見ると、反執権派への討伐は、執権側から仕掛けられたのかもしれません。
蒙古襲来という未曾有の危機を前に挙国一致をしなければならない事情を考えれば、後顧の憂いは絶っておいた方がいいからです。
そして、幕府の政策に異議を唱える者は、「悪党」として容赦なく罰することを許したのも挙国一致のためと考えることが出来るでしょう。何やら戦時中の話を聞いているようですが、まさしく鎌倉日本は蒙古襲来を前に「戦時中」に突入したのです。
参考文献
岡田清一(2001)「北条得宗家の興亡」新人物往来社
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