【元寇】蒙古再来に備える幕府と西日本に拡大する北条氏勢力

鎌倉時代
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1274年(文永十一年)の元・高麗軍による日本侵攻は(文永の役)、対馬から肥後・筑前の九州沿岸地域に大きな損害をもたらしました。本格戦闘はたった1日でしたが、御家人の奮闘もむなしく日本軍は敗色濃厚となったのです。

ところが翌日、元・高麗軍は一夜のうちにして博多湾から姿を消すという不思議な事態がおこります。

撤退の理由は諸説ありますが、とにかく日本軍は勝利したのでした。

文永の役

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元の再襲来に備えよ

西日本では元の再来に備え、沿岸の警備体制が強化されました。

1275年(建治元年)2月、文永の役から3ヶ月後のこと。北九州の警備体制に関する幕府の方策が少弐経資(しょうにつねよし)によって明らかにされています。

幕府の方策というのは、九州の武士(御家人・非御家人問わず)を、3か月ごとに北九州の防衛に専念させるというものでした。

具体的には、防衛につく各国の武士はそれぞれ守護に引率され、春夏秋冬3か月ずつ警備にあたります。その際、担当の国の武士を3組にわけ、各組が1か月ずつ従事するようになっていました。

しかし、元・高麗はいつ攻めてくるかわかりませんので、北九州の警備体制は長期にわたって行われることになります。そのため、多くの武士にとって軍費などの経済的負担は非常に重くのしかかっていくのでした。

西日本に勢力を拡大する北条氏

1275年(建治元年)5月、幕府は長門国の警備が御家人不足で弱くなっていたため(長門国の御家人が北九州の警備についたので)、周防・安芸・備後三か国の武士に長門国警備にあたらせています。

そして、幕府は西日本全体の警備を強化のために、大規模な守護職の交替を行いました。建治年間(1275~1278)ごろまでにはほぼ完了したといわれています。

西日本31か国+北陸道の一部3か国を加えた34か国の守護職は、北条一族がその数を圧倒的に伸ばしています。

建治年間(1275~1278)より前、北条一族が守護職に就いていた国は34か国中9か国でした。

ところが、この建治年間以降を見ますと、北条氏は15か国、姻族の安達氏が1か国で守護職に就いており、西日本・北陸34か国中ほぼ半数の16か国を占めました。

特に、得宗の時宗は3か国から5か国に、弟宗政・宗頼が3か国を占めます。得宗北条氏は、西日本34か国中の約4分の1(8か国)の守護職を占めたことになり、北条一族内でも得宗北条氏の勢力は圧倒的になっています。

得宗北条氏の立場が意外に弱かったという話

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さらに、時宗の姻族である安達氏の娘婿である金沢流北条顕時、泰盛と近い関係にある足利氏がそれぞれ1か国の守護に任命されています。

おそらく、蒙古襲来という未曾有の危機に、幕府の命令を円滑に遂行することを狙ったものと考えられますが、得宗北条氏・安達氏の「身内」の守護職就任は特に目立っています。

北条氏が幕府を私物化したという根拠もこの辺りにあるのでしょうが、私は私物化ではないような気がします

なぜなら、幕府は蒙古再襲来を前に、元国の対日遠征拠点だった高麗征伐や上陸防御の策を講じますが、これらの準備を速やかに行うためには、従来の「評定衆」などの合議制ではなく、トップダウンで速やかに行う必要があったと考えられます。重要ポストを身内で固めていく事になったのは、結果としてそうなったということではないでしょうか?

高麗征伐計画と石塁築造

1275年(建治元年)12月初旬のことです。1276年(建治二年)3月ごろに、「幕府は高麗征伐を行う」として西日本の守護に準備を命じました。守護は、国内の動員兵力・武具・船舶などを幕府に報告しています。

それは、武士だけでなく僧兵らも含めたものでした。

少弐経資・大友頼泰を大将とし、本拠を博多に置き、元の対日拠点がある高麗を攻略しようと計画したのです。

この計画を、無知で無謀な計画と指摘する話もありますが、私にはそうは思えません。いつ終わるとも知れない防衛に時間と費用を費やすくらいなら、敵の拠点を叩く方が得策と考える方が合理的ではないでしょうか。

高麗征伐計画と同時に、幕府は博多湾岸の防備用石塁の築造を進めました。当初は、高麗征伐に参加できない者を使って石塁築造を行うことを計画していましたが、人手不足や物資不足などが原因で、高麗征伐は中止となります。

確かに、攻撃と防衛の両方に力を割くほど幕府に余力やノウハウはなかったと考えられます。

そこで、石塁築造を急ピッチで進めていきます。この築造は沿岸をいくつかの地域にわけ、九州諸国に分担させました。この役割のことを要害石築地役とよびます。

この石塁は、いまも博多沿岸のところどころにその痕跡ををとどめています。現在では、海岸線から遠い内陸部に残っていますが、当時は波打ち際にありました。石塁の海側の高さは2メートル余り、内陸側は1メートル強、底部は3メートルにおよぶ大規模なものでした。海側を垂直に近い状態にするとともに砂浜には乱杭(らんてい)がたてられ、容易に上陸できないように工夫されています。逆の内陸側はなだらかな傾斜をつけ守備をしやすくしていました。

これら石築地役を含む異国警固番役は、蒙古再来を恐れた幕府によって継続され、鎌倉幕府の崩壊後(鎌倉幕府は1333年に滅亡)、1404年(応永十一年)ごろまで続けられたと言われています。鎌倉幕府から室町幕府へ引き継がれているのです。

参考文献

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