平頼綱の政治は、明らかに安達泰盛の政策を否定したものでした。
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そして、今度は北条貞時が平頼綱の政策を否定します。
平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動以後の賞罰はすべて無効とされたのです。
また、頼綱によって失脚させられた御家人を幕府に復帰させています。たとえば、泰盛に連座して下総に配流されていた金沢顕時は、鎌倉に呼び戻され、問注所の執事を罷免されていた太田時連も同じ役職に復帰しています。
このように、貞時は平頼綱政権を否定し、安達泰盛時代の状態に戻していきます。安達泰盛は、時宗の政策を引き継いで弘安徳政と呼ばれる施策を行いましたから、貞時も父時宗の政策を引き継いだと言えるでしょう。
→弘安徳政
越訴方(おっそがた)改革?
1293年(永仁元年)5月、いくつかの法令を制定して、政治の基本方針を明らかにしました。
特に、訴訟は公平を目指し、また採決の停滞を改め、所領をもたない無足の御家人の保護を打ち出します。
安達泰盛の頃、所領をもたない御家人を保護した例として有名なのは蒙古襲来絵詞の主人公竹崎季長です。
貞時は越訴(おっそ)を重視しします。越訴とは、一度確定した判決に対して再審請求をすることです。大仏流北条宗宣と大江康秀を越訴頭人に起用して御家人保護策を具体化しました。
同時に訴訟の即決主義を採り入れます。
この即決主義が色々と物議をかもし出しています。
1293年(永仁元年)10月、裁判の基本的手続きを行う引付が廃止されました。そして、引付にかわって執奏(しっそう)が設置されます。執奏は判決に必要な参考資料を提出して、執権に意見を提示する立場です。執奏には停止された引付頭人をふくむ7人が任命されています。
引付は時頼によって導入された制度です。それまでの引付は、判決原案を評定に提示する職務を担っていました。その原案をもとに評定衆が判決をくだしていました。
その引付をやめ、新たに執奏を設置することで、執権貞時が直接判断を下して、速やかに判決を示すことを目指したのです。訴訟のすみやかな処理は徳政の一環でした。
どういうことかというと、訴訟が長引けば、そのための費用を捻出しなければならないので、弱小御家人にとっては死活問題です。費用を捻出できずに訴訟を諦めざるを得なくなれば、裁判の公平性が保てなくなり、御家人の不満は高まります。貞時の時代は、代々の土地相続によって御家人の所領が細分化され、弱小御家人が増えていました。
過去に引付を停止したことがあるのは、貞時の父の時宗です。1266年(文永三年)に引付を停止しています。この時には、重要なことがらは時宗が直接判断して、些細なことは問注所で扱うことが決められていました。
貞時は父時宗の体制を行おうとしたのです。
時宗も貞時も引付を停止させてはいるのですが、時宗の場合は3年で引付を復活し、貞時の場合は約1年で引付が復活しています。
なぜなら、そもそも執権一人で全てをこなせるはずがありません。
当初、貞時は訴訟を次々と処理していったようです。そのうちに、霜月騒動で泰盛に味方したために、平頼綱によって所領を没収された御家人たちの所領返還要求が増えてきました。霜月騒動以後の賞罰は貞時によって無効とされていたからです。
貞時は裁ききれなくなったのでしょう。霜月騒動に関する訴訟は全く受理しないことを法令化し、貞時の採決した訴訟については、今後一切越訴を認めないという法令を定め、さらには越訴方を廃止してしまいます。
それまで幕府は、越訴方を設置して再審の要求に応えてきました。しかし貞時は、この越訴をなくせば、訴訟全体の数を減らすことができると考えたのかもしれません。
当然、越訴停止に対する御家人たちの不満が増加します。貞時はやむなく越訴を復活させ、1295年(永仁三年)には引付制度を復活させています。
結局、重要な案件は貞時が直接判断するという条件が示された以外は、おおむね元の引付制度に戻されました。
貞時は、時宗と同じように引付を復活せざるを得なくなってしまいます。
越訴については、貞時は改廃を繰り返しているのでここで整理。
- 1293年(永仁元年)、越訴を担当する越訴頭人を任命
- 1294年(永仁二年)、越訴が禁止される。
- 同年12月、越訴禁止の解除。
- 1295年(永仁三年)、引付の復活。
一般的に貞時の時代に、得宗専制政治が確立されたと言われています。しかし、越訴方の成り行きを見ますと、貞時のやる気が空回りしていて、結局は反発を受け右往左往しているように見えます。本当に専制政治を行えたのかは私は疑問です。
永仁の徳政令
元寇による戦費の出費・恩賞なし・相続にともなう所領の細分化・貨幣経済の進展などで、御家人たちは金銭不足に陥ります。
御家人たちは、「鎌倉殿からいただいた」はずの所領を質に入れて、借上(かしあげ)という当時の金融業者から借金を重ねます。
(借上は、室町時代には土倉と呼ばれるようになります)
そして、借金を払えず、質に入れた所領を失ってしまう御家人が続出しました。このことは、鎌倉幕府体制の根底を揺るがしかねない状況です。
1297年(永仁五年)3月、貞時は永仁の徳政令といわれる法令を発します。
徳政令の内容は「東寺百合文書(とうじひゃくごうぶんしょ)」という京都の東寺の古文書に残されています。
- 御家人が売却した土地は、無償で元の御家人に返還(借上から買い取った新しい領主も、元の御家人に返還)
- 御家人の土地の売買・質入の禁止
- 借上の債権債務の関する訴訟の禁止
- 越訴(敗訴側の再審請求)の禁止
という、御家人以外の権利を無視し、御家人の権利保護のみを目的とするものでした。
1~3は、簡単に言えば、借金が棒引きになり、質に入れた土地が返ってくるというものです。
御家人にとってはありがたい話ですが、それは一瞬の話。そもそも、御家人が追い込まれた状況、つまり戦費の実費負担、所領の細分化、貨幣経済の進展などは、何も変わっていません。
逆に、土地を質に入れることは禁じられたので借金できません。金融業者も、貸した金を踏み倒されたので、お金を貸しません。御家人の困窮は加速し、幕府への不満はますます高まることになります。
また、たびたび禁止したり復活させたりする越訴は、永仁の徳政令でも禁止したり復活させたりします。
1297年(永仁五年)3月、永仁の徳政令によって再び越訴は禁止。
1298年(永仁六年)2月、越訴復活。
1300年(正安二年)10月、越訴方が廃止されて得宗被官が越訴管領に任命し、越訴を得宗に一元化しようとする。
1301年(正安三年)8月、越訴管領が廃止され、越訴方が復活する。
結局、越訴は復活したのでした。
むすび
貞時の時代は、得宗専制政治の時代と言われます。しかし、越訴方の変遷を見ればわかるように、方針は右へ左へとフラフラしたもので、とても専制とは呼べないものです。
徳政令も一時は御家人を救うことになりますが、結局は御家人制度の瓦解を防ぐどころか、早めたのかもしれません。
貞時は、徐々に政治の表舞台から消え、酒に溺れて政治を顧みなくなっていきます。
貞時は、一般的言われるような強力専制政治を行った得宗ではなく、むしろ思うように政治を行えない得宗の限界を感じた人物だったのではないでしょうか。
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