鎌倉幕府最後の執権は「北条高時」ではありません。
高時は最後の「得宗(とくそう)」で、最後の執権は「赤橋流北条守時」です。
「赤橋守時って誰?」と言わないでください。
足利尊氏の正室登子の兄、つまり尊氏の義兄。あるいは、室町幕府2代将軍足利義詮・初代鎌倉公方足利基氏の伯父と言えば、結構身近に感じられませんか。
今回は、赤橋守時を通して鎌倉幕府を見てみましょう。
赤橋流北条氏
北条泰時の弟重時に始まる北条氏門流を「極楽寺流」といいます。
さらに、極楽寺流の重時から長時(赤橋氏)・時茂(常葉氏)・義政(塩田氏)・業時(普恩寺氏)の庶家が生まれます。
これら極楽寺流の庶家は、鎌倉時代を通して幕府の要職に就く家柄となり、北条一族内でも高い家格となります。
その中でも、赤橋氏は家祖長時が執権(6代)をつとめたことから、得宗家に次ぐ高い家格を有しました。
赤橋と称するのは、鎌倉の鶴岡八幡宮の源平池にかけられていた赤橋付近に邸宅を構えていたことに由来します。
誕生から執権まで
守時は、1295年(永仁三年)に北条久時の子として生まれました。母は北条時宗の弟宗頼の娘ですので、得宗家に近い血縁者でもありました。
嘉元の乱で有名な北条宗方は叔父にあたります。弟には最期の鎮西探題となった英時らがいて、妹登子は足利高氏(尊氏)に嫁ぎました。
【嘉元の乱】北条貞時の専制政治!と思いきや北条氏の内紛というオチ。
父久時や祖父義宗は執権や連署への就任はありませんでしたが、祖父義宗は六波羅探題北方のとき、執権北条時宗の庶兄時輔を誅殺したことで知られています。
久時もまた六波羅探題北方、一番引付頭人という幕府の要職についています。
赤橋氏の嫡流は将軍を烏帽子親として元服し、その一字を与えられています。守時の「守」も将軍守邦親王から賜ったものです。
以下、守時の官位歴任を簡単にご紹介。
1307年(徳治二年)…従五位下左近将監(13歳)
1311年(応長元年)…評定衆(17歳)
1312年(正和元年)…従五位上(18歳)
1313年(正和二年)…一番引付頭人(19歳)
1315年(正和四年)…正五位下(21歳)
1316年(正和五年)…讃岐守(22歳)
1319年(元応元年)…武蔵守(25歳)
執権就任
1326年(嘉暦元年)4月24日、守時は執権に就任します。そして、8月には相模守に任命されます。
守時が執権に就任する1ヶ月前には、北条高時が出家によって執権に就任した金沢貞顕が突然辞任するという事件が起こります。
これは、高時の出家後、執権になれなかったことに不満をもった泰家(高時の同母弟)による襲撃を恐れたためと言われています。
この事件は「嘉暦騒動」と呼ばれています。
【嘉暦騒動・元徳騒動】傀儡化した得宗北条高時と鎌倉幕府の限界
この事件を受けて、執権に就任したのが守時でした。
守時が執権に選ばれた理由は、得宗家の次に家格が高い赤橋氏出身で、一番引付頭人という執権・連署に継ぐ高い地位にいたからでした。
ちなみに、得宗家以外で執権を出している北条一門は赤橋氏、普恩寺氏、政村流、金沢氏、大仏氏です。
この時の幕府首脳は、連署に大仏維貞、引付頭人は一番北条茂時(政村流煕時の子)、二番金沢顕実、三番北条時春、四番大仏貞直、五番安達時顕でしたが、この時期の幕府は「寄合」での合議を中心に運営されていました。
そして、幕府権力の中心は得宗被官を代表する内管領長崎高綱(入道円喜)、高時の岳父(妻の父、つまり舅)安達時顕にありました。
そのことから、守時は執権として「寄合」に出席していましたが、寄合を主導する立場ににはなかったと考えられています。かつては、将軍の権力代行者だった執権も「お飾り」となっていたのです。
国内擾乱
鎌倉幕府は、蒙古襲来といった対外的な危機と国内に山積する難題を得宗への権力の集中によって切り抜けようとしました。ところが、さらに難問が噴き出すありさまで、幕府は諸問題に対処できない機能不全に陥りつつありました。
守時が執権を務めたのは、1326年(嘉元元年)から幕府の滅亡する1333年(元弘三年)までの7年間でしたが、彼は幕府瓦解のまっただ中にいたといえます。
1318年(文保二年)頃から、奥州蝦夷の管領安東季久とその一族安東季長との間で所領をめぐる争いが起きていましたが、内管領長崎高資はこの両者から賄賂をとって両方に適当に下知をくだし、結果さらに事態を混乱させてしまいました。
守時が執権に就任した1326年(嘉暦元年)、泥沼化した紛争を鎮圧するために、幕府は宇都宮高貞らを蝦夷追討使として、下野・常陸の御家人からなる軍勢を奥州に派遣します。しかし、戦乱はなかなかおさまらず再三にわたっての出兵の末、1328年(嘉暦三年)にようやく和談が成立します。
奥州の騒動を鎮圧するのに10年もの歳月を費やした幕府の権威は大いに失墜することになり、幕府の弱体化をさらけ出すことになりました。
さらに、幕府は諸国での悪党蜂起にも苦しみます。
「悪党」とは、簡単に言えば幕府体制や荘園制的秩序に反抗した武装集団のことで、年貢未進、荘園乱入、住人追補などの非法行為を行っていました。
特に、貨幣経済の発達している畿内から瀬戸内海沿岸地域に多く出没し、1327年(嘉暦二年)には伊賀国黒田荘の悪党蜂起、1328年(嘉暦三年)には播磨国福泊による摂津兵庫島乱入などがありました。
後醍醐天皇の倒幕運動
そうした中で後醍醐天皇による倒幕への動きが始まります。1321年(元亨元年)に親政を開始した後醍醐天皇は人材を登用して政治の改革につとめましたが、自らの皇位維持と自らの子孫への皇位継承のために倒幕を決意します。
その計画は、1324年(正中元年)に事前に幕府の知るところとなって、日野資朝・俊基が後醍醐天皇の代わりに全ての責任を負います。資朝は佐渡に流され、俊基は京都で謹慎となりました。これを「正中の変」といいます。
しかし、後醍醐天皇の倒幕への執念はおさまることを知らず、1331年(元弘元年)に再度計画。しかし、これも幕府の知るところとなります。
幕府の追求を恐れた後醍醐天皇は、先んじて笠置山で挙兵しました。
幕府は、大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏らを大将軍とする大軍を派遣して落城させ、捕らえた後醍醐天皇を隠岐に配流しました。これを「元弘の変」といいます。
倒幕運動は鎮圧されたかに見えましたが、1332年(元弘二年)12月に護良親王と楠木正成らが挙兵し、1333年(元弘三年)1月には赤松則村(入道円心)が挙兵。2月には後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出し、伯耆国(鳥取県西部)船上山に名和長年とともに立てこもります。そして、5月になって足利高氏が反旗を翻したことにより六波羅探題が滅亡し、新田義貞が挙兵におよびます。
守時の最期
1333年(元弘三年)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)で挙兵した新田義貞は鎌倉街道上道を南下します。
『太平記』によれば、挙兵当初150騎に過ぎなかった新田勢は、幕府に不満をもつ各地の武士たちが合流したことで、20万騎に膨れ上がりました。この兵力は誇張と考えられますが、大軍勢となったのは確かです。ここまで大軍になったのは、新田勢の中に足利高氏嫡男千寿王(のちの義詮)がいたからでした。
新田軍は、5月11日には小手指原(埼玉県所沢市)、12日には久米川(東京都東村山市)、15・16日には分倍河原(東京都府中市)で迎撃する幕府軍を破り、17日には関戸(東京都多摩市)で陣を整え、村岡(神奈川県藤沢市)から鎌倉突入を図りました。挙兵から10日ほどで鎌倉付近まで迫る破竹の勢いでした。
これをくい止めるために、洲崎(神奈川県鎌倉市)で迎撃したのが赤橋守時でした。洲崎は化粧坂にも巨袋坂にもつながる要地であり、小高い地で村岡方面への見通しもよいため、この辺りに布陣したと考えられています。
5月18日に、激戦を展開しますが、ついに力尽きて山ノ内まで退き、侍大将南条高直ら90余人とともに自害して果てました。
「お飾り」とはいえ現役の執権が、前線におもむき戦死したのには理由がありました。
高氏を救った守時
高氏(尊氏)に嫁いでいた登子と嫡男千寿王は、人質として守時邸にあったと言われています。
高氏謀反の知らせが京都から鎌倉に届く寸前に、登子と千寿王は鎌倉を脱出して逃げ切ります。この逃走劇には守時の計らいがあったとされています。
当然、幕府内では守時が高氏や義貞らの倒幕軍と内応していると疑われ、それを払しょくするために前線におもむき戦死したと『太平記』は記しています。
鎌倉幕府が滅亡して半年も経たない1333年(元弘三年)11月22日。
後醍醐天皇は、ある人物に三浦半島の田地1万疋(約100石)を与える綸旨を出しました。
その人物とは、鎌倉幕府最後の執権赤橋流北条守時の後家(未亡人)です。
幕府滅亡後、朝敵とされた北条一族はことごとく所領を没収されましたが、後家とはいえ北条一族の名誉回復がなされたことはとても大きな意義があります。
もちろん、これは尊氏が後醍醐天皇に対して要求したからでしょう。
理由については、朝敵の義弟という立場を尊氏が嫌ったからとも言われていますが、登子や千寿王を鎌倉から逃がした義兄守時が朝敵のままであることを不憫と感じたからではないでしょうか。
この1年半後には、後醍醐天皇は得宗北条高時に「徳崇大権現」という神号をおくり、尊氏が北条一族の菩提を弔ううために宝戒寺を建立します。尊氏の北条一族に対する思いが垣間見えるエピソードです。
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