源頼朝の弟といえば、源義経や源範頼を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?それが普通です。
しかし、あまり知られていないですが、義経や範頼のように頼朝に滅ぼされずに、鎌倉幕府初期まで生き残った弟がいます。
彼の名は阿野全成(あのぜんじょう)。源義経の実兄でもあります。
そして、頼朝亡き後の鎌倉幕府の権力争いに挑み、敗れた悲しき人物でもあります。
生い立ちから頼朝挙兵まで
阿野全成は1153年(仁平三年)に、源義朝と常磐御前の間に生まれます。幼名は今若。弟に乙若と牛若がおり、牛若は言うまでもなく源義経。
1159年(平治元年)、平治の乱が勃発。父義朝は殺害され、頼朝は伊豆へ配流。平清盛によって、今若・乙若・牛若は助命されたものの出家させられます。
今若は醍醐寺、乙若は園城寺、牛若は鞍馬寺でした。
出家して名乗った名前が全成でした。
1180年(治承四年)、以仁王が平家討伐の令旨を出すと寺を脱出し、東国に向かいます。頼朝が石橋山の戦いで敗北したあとのころ、全成は佐々木定綱兄弟に出会い、頼朝再起まで相模国高座郡でかくまわれます。
そして、頼朝が下総で兵力を増強させている10月に、下総国鷺沼の陣営で源頼朝と対面しました。頼朝は涙して喜んだといいます。義経が頼朝と出会った少し前のことで、頼朝兄弟の中では一番最初に対面したことになります(範頼はいつ対面したか明らかになっていませんので)。
阿野全成、北条氏と連携して頼家と対立
阿野全成は、源頼朝から武蔵国長尾寺の地を与えられ、北条時政の娘で阿波局と結婚しました。
この阿波局は源実朝の乳母であるので、阿野全成は実朝の乳母父でもあります。さらに、この阿波局は梶原景時の失脚の引き金となった、あの阿波局です。
梶原景時が結城朝光に因縁をつけて滅ぼそうと企んでいることを、結城朝光に伝えたのが阿波局です。
治承・寿永の乱(源平合戦)以降は、阿野全成は吾妻鏡などの記録には登場していません。
彼は悪禅師と呼ばれ、単なる坊さんではありませんでした。この場合の「悪」は悪いという意味ではなく、武勇に優れたという意味です。
与えられた領地か、鎌倉で後詰として頼朝のそばにいたのかもしれません。
阿野全成が再登場するのは、頼朝がした死去した1199年(建久十年)以降です。
阿野全成は、北条時政・義時と共に行動を共にするようになり、二代将軍源頼家と対立することしばしば。
当然と言えば当然の行動で、阿野全成の妻は北条時政の娘で阿波局。北条とつるむのは当然です。
頼家の乳母父は比企能員で絶大な勢力を有していましたが、実朝の乳母父の阿野全成が、実朝を擁立してその勢力を拡大させようと考えても不思議ではないです。
さらに、頼朝の弟として唯一生き残っている存在なので、幕府権力・将軍の地位を狙うことも可能です。
そのことが、頼家を焦らせたのでしょうか?
1203年(建仁三年)、頼家は武田信光に命じて、阿野全成を謀反人として捕らえ、常陸国に配流します。さらに有力御家人の宇都宮宗綱の四男で、小田氏の始祖である八田知家を派遣し滅ぼしてしまいます。
頼家は、北条とつるんで自分の将軍の座を狙うことができる叔父阿野全成を早く処分しないと、自分が危なくなることはわかっていたのでしょう。
あるいは、頼家にとって忠実な御家人だった梶原景時を滅ぼされた仕返しだったのかもしれません。
阿野全成を滅ぼした八田知家は宇都宮氏出身ですが、この宇都宮氏は北条氏と仲が悪く、のちに北条義時が執権になったときに事件が起こっています。
ここで、今日のお話のライバル構図を簡単に載せておきます。
源頼家 ― (乳母父)比企能員・(御家人)宇都宮氏
源実朝 ― (乳母父)阿野全成・(御家人)北条氏
阿野全成の子孫
阿野全成は滅ぼされますが、その子孫は生き残ります。
阿野全成の子時元は、三代将軍源実朝が殺されると、自らが将軍になろうと兵を募りました。ところが、思うように兵が集まらないばかりか、叔父で執権の北条義時に攻め滅ぼされます。
阿野全成の娘は藤原公佐に嫁ぎ、その息子は阿野氏を再興しました。
それから100年後。
後醍醐天皇の妃となり、一身に寵愛を受け、後村上天皇の母になった阿野廉子(あのれんし)は、阿野全成の子孫にあたります。
阿野廉子は、足利尊氏と馬が合ったというか、利害が一致していたため、建武政権の崩壊を早めたとも言われています。
参考文献
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社。
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